第10話


「port」のアカウントを見つけたのは、数ヶ月前のことだった。


学校での人間関係に疲れ果て、意味もなくスマートフォンの画面を眺めていた夜。おすすめユーザーとして、その名前は私のタイムラインにひっそりと現れた。何気なくタップした先に広がっていたのは、私がずっと心のどこかで探し求めていた景色だった。


最初の投稿まで遡り、すべての写真と動画を夢中で見た。その日から、彼の新しい投稿をチェックすることが、私の一日の終わりに欠かせない大切な儀式になった。


彼の撮る写真は、決して派手なものではない。有名な観光地を写したものはほとんどなく、むしろ、多くの人が見過ごしてしまうような、日常の片隅にある風景が多かった。錆びた鉄棒しかない小さな公園、夕暮れの河川敷、路地裏で丸くなっている猫、雨の日のバスの窓から見た街灯の滲み。


けれど、彼のフレームを通して見ると、そのありふれた風景が、まるで特別な物語の一場面のように輝いて見えた。彼の視線は、いつも温かかった。世界に対する、静かで、優しい肯定に満ちていた。


私が特に好きだったのは、彼が撮る「空」の写真だった。

突き抜けるような夏の青空、茜色と紫色が混じり合う夕焼け空、星が降るような夜空。同じ空は二度とないことを、彼の写真は見事に捉えていた。光葉学園の教室の窓から見える空も、自宅の子供部屋から見える空も、窮屈で色褪せて見えるのに、彼の写真の中の空は、どこまでも広く、自由だった。


私は、彼の投稿にコメントを残したことは一度もなかった。ただ、静かに「いいね」のハートを押すだけ。それは、私と同じように、この静かな世界を愛するたくさんの名もなき人々の中に、自分の存在をそっと溶け込ませるような行為だった。下手にコメントをして、この心地よい聖域の空気を乱したくなかった。


彼の存在は、私の日常にも少しずつ変化をもたらした。

通学の電車の中から、ふと空を見上げるようになった。道端に咲く小さな花に、足を止めるようになった。彼の視線を借りることで、私の灰色だった日常が、ほんの少しだけ色づいて見えた。


「ミサキ、最近、時々ぼーっとしてるよね。どうかした?」


昼休み、友人たちと中庭でお弁当を広げている時、グループの一人にそう言われた。


「え? そんなことないよ」


私は、慌てていつもの笑顔を作って否定する。けれど、心の中ではドキリとしていた。気づかれてしまった。私が、心だけ、ここではないどこかへ旅立っていることに。


「そういえば、進路希望調査の紙、もう出した? ミサキはもちろん理系でしょ?」


別の友人が、話題を変えるように言った。その言葉に、私の心は再び現実へと引き戻される。


「……うん、まあ、一応ね」


私は、曖昧に言葉を濁した。

数日前、担任教師から真っ白な進路希望調査票を渡された。光葉学園は中高一貫なので、高校受験はない。けれど、高等部からは、文系と理系、さらにその中でも細かくコースが分かれる。医学部を目指す生徒は、ほぼ全員が「医進理系コース」という特別なクラスに進むのが通例だった。


両親からは、当然のようにそのコースを選択するよう言われている。けれど、私の手は、まだその用紙のどの欄にもチェックを入れることができずにいた。白紙のままの調査票が、まるで私の無力さそのものを表しているようで、机の引き出しの奥にしまい込んである。


もし、私が「文系に進みたい」と言ったら、父や母はどんな顔をするだろう。

おそらく、最初は冗談だと思うだろう。そして、私が本気だと知った時、きっとひどく失望し、激しく反対するに違いない。「あなたのため」という、あの魔法の言葉で、私のささやかな希望をねじ伏せようとするだろう。


その光景を想像するだけで、息が苦しくなる。

私には、親に逆らうだけの勇気も、強さもなかった。結局、私は決められたレールの上を歩くしかないのだ。そう思うと、目の前が真っ暗になるような絶望感に襲われた。


その日の夜も、私はベッドの中で「port」のアカウントを開いていた。

現実から逃げるように、美しい写真の世界に没頭する。すると、珍しく、彼がリアルタイムで短い動画を投稿したところだった。


それは、夜の駅のホームを撮ったものだった。

ひっきりなしに電車が発着し、人々が忙しなく行き交う、巨大なターミナル駅。カメラは、ホームの端に立ち、電光掲示板を映し出していた。次々と切り替わっていく行き先表示。北へ向かうもの、西へ向かうもの。そのどれもが、私の知らない地名だった。


動画には、こんな言葉が添えられていた。


『ここから、どこへだっていける。そう思うだけで、少しだけ強くなれる気がした夜』


その言葉が、私の心のど真ん中に、まっすぐに突き刺さった。


―――どこへだって、いける。


そうだ。たとえ親に決められたレールの上を歩いていたとしても、私の心が、どこへ行くかを決めるのは、私自身だ。いつか、このレールを飛び降りる日が来るかもしれない。その日のために、私は、私自身の「行きたい場所」を、見失ってはいけない。


私は、勢いよくベッドから起き上がった。

そして、机の引き出しの奥から、あの白紙の進- - -

進路希望調査票を取り出した。


ペンを握る。

その手が、わずかに震えていた。

けれど、もう迷いはなかった。


私は、「第一希望」の欄に、はっきりと、力強い文字でこう書いた。


「文系コース」


そして、「将来の希望」を記述する欄に、私は、ずっと心の中に秘めていた言葉を、初めて紙の上に解き放った。


『まだ、決まっていません。これから、時間をかけて探したいです』


それは、あまりにもささやかな、小さな反逆だった。

この一枚の紙が、両親や教師の手に渡った時、きっと大きな波紋を呼ぶだろう。私は、厳しい追及と説得に晒されることになるはずだ。


けれど、不思議と、怖くはなかった。

スマートフォンの画面に映る、あの電光掲示板の光が、まるで私を応援してくれているように思えたから。


「port」さん、ありがとう。

会ったこともない、顔も知らないあなたのおかげで、私は、ほんの少しだけ、前に進む勇気をもらえました。


私は、その夜、初めて「port」の投稿のコメント欄に、震える指で、たった一言だけ、書き込んだ。


『ありがとう』


それは、たくさんの「いいね」や他のコメントの中に埋もれてしまうような、小さな小さな感謝の言葉だった。


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