第9話
私の世界は、いつも少しだけ、ガラスを一枚隔てているような気がする。
光葉学園の中等部の教室。窓から差し込む午後の光が、埃をきらきらと輝かせながら、友人たちの楽しげな笑い声に満ちた空間を照らしている。
「ミサキ、次の移動教室、一緒に行こ!」
「あ、待って、その前にこのプリント見せて!」
グループの中心で、私はいつも通り完璧な笑顔を浮かべて頷く。「もちろん」と当たり障りのない返事をしながら、教科書を貸し、次の授業の準備をする。彼女たちの会話は、昨日見たテレビドラマの話、人気のアイドルグループの誰が格好いいか、新しくできたカフェの限定スイーツについて。私は相槌を打ち、時々気の利いた質問を挟むことで、このグループの一員としての役割を全うする。
「そういえば、サッカー部の先輩がミサキのこと、可愛いって言ってたよ」
「えー、やだあ」
きゃっきゃとはしゃぐ友人たちの中で、私の心は急速に冷めていくのを感じる。彼女たちが私に向ける好意は、本質的には私という人間そのものに向けられたものではない。それは、「容姿が整っていて、男子に人気があって、医者の娘である」という、記号化された「ミサキ」に向けられたものだ。このグループにいれば、自分たちも格が上がる。そんな打算が透けて見えるたびに、私の心には薄い氷の膜が張っていく。
廊下を歩けば、男子生徒たちの視線を感じる。すれ違いざまに聞こえる「やっぱ可愛いよな」という囁き声。それは、私をさらに孤独にした。彼らの視線は、私の内側を通り越して、ただ外側の輪郭だけを褒めそやす。誰も、ガラスの向こう側にいる本当の私に、触れようとはしてくれない。
そして、その視線は、女子生徒たちの嫉妬という名のナイフに変わる。すれ違いざまの小さな舌打ち、聞こえよがしに交わされる、「調子乗ってるよね」という陰口。私は、それらすべてに気づかないふりをして、背筋を伸ばして歩く。笑顔という名の鎧を、決して脱ぐことは許されない。
家に帰れば、また別のガラスの箱が私を待っている。
広々としたリビング、センスの良い家具、塵一つない清潔な空間。けれど、そこに温かい生活の匂いは希薄だった。外科医である父は多忙を極め、母は父のサポートと、「医師の妻」としての付き合いに忙しい。食卓で交わされる会話は、決まって私の将来についてだった。
「ミサキ、そろそろ高校のコース選択を考えないといけないわね」
「うん」
「もちろん、理系コースを選ぶのよ。医学部進学が前提なのだから、数Ⅲまでしっかり履修できるクラスに入らないと」
母の言葉は、疑問を差し挟む余地のない、決定事項としての響きを持っていた。父も、分厚い医学専門誌から顔を上げずに言う。
「そうだぞ、ミサキ。これからの時代、ただの医者ではダメだ。何か専門分野を持って、研究もできる医師にならなければ。お前の祖父も、私も、そうやってこの病院を守ってきたんだ」
医者の家系。それは、傍から見れば恵まれた環境なのだろう。経済的な不自由もなく、将来の道も約束されている。けれど、私にとってそのレールは、足枷以外の何物でもなかった。
私の心は、全く別の場所にあった。
古い文学作品に描かれる人間の心の機微、歴史の中に埋もれた人々の暮らし、哲学者が遺した深淵な問いかけ。世界はこんなにも広く、面白そうなことで満ち溢れているのに、なぜ私は、医学という一つの道しか選ぶことを許されないのだろう。
「でも、私……」
私が何かを言いかけると、母はそれを遮るように、優しい、しかし有無を言わさぬ口調で言った。
「あなたのためを思って言っているのよ。それが、あなたにとって一番幸せな道なんだから」
これ以上、反論することはできなかった。私のささやかな抵抗は、いつもこの「あなたのため」という言葉の壁に、いとも簡単に阻まれてしまう。
だから私は、逃げるのだ。
自室のベッドに潜り込み、スマートフォンを手に取る。指が慣れた動きでアイコンをタップし、SNSアプリを開く。現実世界の友人たちとの繋がりを絶つように、タイムラインを高速でスクロールし、私が本当に見たいものだけを探す。
そして、見つけた。
私の、唯一の逃避先。
「port」
それが、そのアカウントの名前だった。
アイコンは、古びたフィルムカメラのイラスト。プロフィール欄には、ただ一言、「世界の片隅を切り取る」とだけ書かれている。
そのアカウントが投稿するのは、プロのカメラマンが撮るような、完璧に構図が計算された写真ではない。どこか懐かしく、少しだけピントが甘い、けれど、見た人の心をふわりと軽くするような、優しい写真と、短いVlogばかりだった。
今日の投稿は、雨上がりの神社の写真だった。
苔むした石畳、濡れて色を濃くした狛犬、拝殿の向こうに見える、霧がかった森。添えられた文章は、いつも短い。
『雨の匂いはふと、懐かしい気持ちにさせてくれる』
私は、その写真と短い言葉を、食い入るように見つめた。
フレームの中の景色は、私のいる息苦しい現実とは全く違う、静かで、穏やかな時間が流れている。私は、この「port」という人が切り取る世界が、どうしようもなく好きだった。彼(あるいは彼女)の目を通して見る世界は、いつも青く、澄み渡っているように見えた。
この人は、一体どんな人なのだろう。
どんな人生を送れば、こんなにも優しい視線で、世界を見つめることができるのだろう。
私は、彼の過去の投稿を、何度も何度も遡って見ていた。海、山、古い町並み、名もなき道端の草花。そのすべてが、私の心を癒やし、ここではないどこかへと連れて行ってくれる、魔法の絨毯のようだった。
この「port」という存在だけが、ガラスのこちら側にいる私を、優しく肯定してくれるような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます