第8話
あれから、僕の世界は再び、家と塾と学校を往復するだけの閉じた三角形に戻った。いや、以前よりもっと狭く、息苦しいものになったと言っていい。母は宣言通り、毎日僕を塾まで送り迎えし、その目は僕が少しでも道から外れないかを見張る監視カメラのようだった。父は以前にも増して無口になり、僕の成績表の数字だけが、父子の唯一のコミュニケーションツールとなった。
僕の手から奪われた定期券は、二度と戻ってこなかった。
当然、あの町へ行くことは、叶わぬ夢となった。
時々、どうしようもない衝動に駆られて、電車の路線図を眺めることがあった。自宅の最寄り駅から、ターミナル駅へ向かう太い線。そこから分岐していく、無数の細い線。その中に、あの駅の名前を見つけると、胸がきゅっと締め付けられた。
今頃、彼らはどうしているだろうか。
あの公園で、相変わらずボールを蹴っているのだろうか。「助っ人」が来なくなったことを、誰か不思議に思っているだろうか。僕を誘ってくれた、あの女の子は――。
思考がそこまで及ぶと、僕は慌てて頭を振って、目の前の問題集に意識を戻した。感傷に浸っている暇はない。僕には、やらなければならないことがあった。
あの日以来、僕の勉強への取り組み方は、明らかに変わっていた。以前のような、親から言われたことをただこなすだけの受け身の姿勢は消えていた。この牢獄から抜け出す。その一点だけを目標に、僕は歯を食いしばって机に向かった。分からない問題があれば、プライドを捨てて先生に質問し、食らいついた。睡眠時間を削り、参考書の隅から隅まで読み込んだ。
周囲の大人たちは、僕の変化を「あの一件で反省し、ようやく受験生としての自覚が芽生えた」と好意的に解釈した。母の監視の目も、少しだけ和らいだ。けれど、本当の理由は誰にも言わなかった。僕が戦っているのは、目の前の入試問題であると同時に、僕を縛り付けるこの息苦しい世界そのものだった。
そして、運命の二月が来た。
第一志望の名門中学の入試日。校門の前には、びっしりと塾の旗が立ち並び、先生たちの激励の声が飛び交っていた。その異様な熱気の中で、僕は不思議と冷静だった。やるべきことは、すべてやった。あとは、この手で結果を掴むだけだ。
試験の手応えは、悪くなかった。けれど、合格を確信できるほどの余裕もなかった。すべてが、終わった。僕は、解放感と、言いようのない虚脱感に包まれながら、試験会場を後にした。
数日後。合格発表は、ウェブサイトで行われた。
母と二人、パソコンの画面を食い入るように見つめる。指定の時刻になり、ページを更新すると、「合格者受験番号一覧」という文字が現れた。
僕は、自分の受験番号を探した。
上から下へ、ゆっくりと。何度も、何度も。
しかし、そこに、僕の番号はなかった。
「……ない」
僕が呟くと、隣で母が「そんなはずない」と声を震わせながら、マウスを握って何度も画面をスクロールした。けれど、結果は変わらない。残酷なほどにはっきりと、僕は「不合格」の三文字を突きつけられた。
母が、静かに泣き始めた。嗚咽を漏らし、肩を震わせている。「ごめんなさい」と何度も繰り返すその姿は、僕の不合格を、自分の育て方の失敗だと責めているようだった。僕は、そんな母にかける言葉を見つけられなかった。
不思議と、涙は出なかった。
もちろん、悔しくないわけではない。あれだけ努力したのだから。けれど、それ以上に、どこか「やっぱりな」と、冷静に受け止めている自分がいた。あの学校は、親が望んだ場所であり、僕が心の底から行きたいと願った場所ではなかったからかもしれない。
その日の夕方、第二志望だった学校の合格発表があった。
その学校は、第一志望校ほどの知名度はないものの、自由な校風で知られ、生徒の自主性を重んじる教育方針を掲げていた。僕がこの学校を選んだのは、塾の資料で見た「制服自由、校則は最低限」という一文に、どこかあの公園の自由な空気と通じるものを感じたからだった。母は最後まで「もっと偏差値の高い学校にすべきだ」と不満そうだったが、最終的には僕の意見を尊重してくれた。
今度は、僕一人でパソコンの前に座った。
合格者一覧のページを開き、自分の番号を探す。
そこには、僕の番号が、確かにあった。
その数字の並びを見つめていると、不意に、涙がこぼれた。
それは、不合格だった時の悔し涙とは違う、温かい涙だった。
僕は、勝ったのだ。
第一志望校には負けたかもしれない。親の期待には、応えられなかったかもしれない。
けれど、僕は、僕を縛り付けていた世界との戦いに、確かに勝ったのだ。
窓を開けると、二月の冷たい風が、僕の頬を撫でた。その風は、どこか遠い場所の匂いを運んできたような気がした。あの見知らぬ町の、あの公園の匂いを。
僕は、これから始まる新しい生活に、胸を躍らせていた。そこにはもう、母の監視も、父の無言の圧力もない。どんな服を着て、誰と友達になり、何に打ち込むのか。すべてを、僕自身の意志で決めることができる。
あの公園で過ごした、ほんの数時間。名前も知らない彼らと交わした、いくつかの言葉。
あの短い出会いが、僕の人生の羅針盤になっていた。
「ありがとう」
僕は、誰に言うでもなく、空に向かって呟いた。
いつかまた会えるかどうかは分からない。けれど、君たちが教えてくれた、本当の「自由」の意味を、僕はこれからもずっと、胸に抱いて生きていく。
僕の中学受験は、こうして終わった。
それは、世間一般で言えば「敗北」だったのかもしれない。
けれど僕にとっては、紛れもない「勝利」であり、僕の人生が、本当の意味で始まった、記念すべき日になったのだった。
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