第7話



母に腕を掴まれ、半ば引きずるようにして上り方面の電車に乗せられた。


車内は空いていた。僕と母は、ドアのそばのロングシートに並んで腰掛けた。けれど、僕たちの間には、分厚く、冷たい透明な壁があるかのようだった。


母は、一言も口を開かなかった。

ただ、まっすぐに前を見つめている。その横顔は、僕が今まで見たことがないほどに硬く、冷たく、まるで石膏像のようだった。時折、吊り革広告を映す窓ガラスに、僕の顔と母の顔が並んでぼんやりと浮かび上がる。そこに映る自分は、まるで罪人のように小さく、惨めに見えた。


僕は、母に何かを話しかける勇気も、許しを乞う言葉も持ち合わせていなかった。僕の頭の中では、ただひたすらに、あの公園の光景が繰り返し再生されていた。僕を「助っ人」と呼んだ彼女の笑顔。仲間たちの屈託のない笑い声。ボールを蹴る乾いた音。夕日に照らされた象の滑り台。


―――もう、二度と、あの場所へは行けない。


その事実が、じわじわと実感となって胸に広がっていく。僕がようやく見つけた、たった一つの聖域。僕が僕でいられる、ほんのわずかな時間。それは、あまりにも脆く、儚いものだった。


電車が、一つ、また一つと駅を通過していく。見慣れた景色が近づいてくるにつれて、僕の心臓は鉛のように重くなっていく。あの穏やかな町が、僕の世界からどんどん遠ざかっていく。まるで、夢から覚めていくかのような、残酷な感覚だった。


やがて、自宅の最寄り駅に着いた。

ホームに降り立った瞬間も、改札を出る時も、母は僕の腕を掴んだまま、一度も離さなかった。僕が、またどこかへ逃げ出すとでも思っているのだろう。その強い力が、僕の罪の重さを物語っていた。


家の明かりが見えた時、僕は息を飲んだ。リビングの窓から漏れる光が、いつもよりずっと明るい。父がいる。いつもなら、まだ帰宅していないはずの時間に。母から連絡があったのだ。僕の中で、最後の希望が、ぷつりと音を立てて消えた。


これから始まるのは、裁判だ。そして、僕には、弁護人も、擁護してくれる証人もいない。


9


リビングのドアを開けると、ソファに深く腰掛けた父が、腕を組んで僕を待っていた。テレビは消え、部屋の中は息が詰まるような静寂に包まれている。


「おかえり」


父の声は、低く、静かだった。だが、その静けさこそが、嵐の前の不気味な静けさであることを、僕は知っていた。


僕は、ダイニングテーブルの椅子に座らされた。父と母が、僕の正面に座る。まるで、取り調べ室だった。テーブルの上には、僕の好物は何一つ並んでいない。そもそも、夕食が用意されている気配すらなかった。


「説明してごらんなさい」


先に口火を切ったのは、母だった。その声は、電車の中の沈黙が嘘のように、怒りで震えていた。


「どうして、あんな場所にいたの。塾をサボって、何をしていたの」


「……別に、何も」

「何も、じゃないでしょう! 母さんは見たのよ。あなたが、泥だらけになって、知らない子たちとボールを蹴っているのを!」


母は、僕が公園から駅へ向かう姿を、どこかで見ていたのだ。僕が必死に隠してきた秘密は、すべて白日の下に晒されていた。


「勉強が、嫌になったのか」


父が、静かに問い詰めてきた。


「違う……」

「じゃあ、なぜだ。なぜ、私たちを裏切るようなことをした」


裏切り。その言葉が、重い楔のように僕の胸に打ち込まれた。僕の行動は、父と母にとっては、そういう行為でしかなかったのだ。


「私たちは、お前の将来のためを思って、必死に頑張っている。仕事も、家のことも。お前が勉強に集中できる環境を整えるために、どれだけのことを犠牲にしていると思っているんだ」


父の言葉は、正論だった。正論だからこそ、僕には返す言葉がなかった。僕が感じていた息苦しさも、ほんの少しだけ自由が欲しかったという願いも、彼らの「正しさ」の前では、ただの甘えであり、我儘でしかなかった。


結局、僕には、黙って俯くことしかできなかった。


審判は、すぐに下された。

「あなたの定期券は、これからはお母さんが預かります」

「塾の送り迎えも、これからは私がします。あなたは、まっすぐ塾へ行き、まっすぐ家に帰ってくる。それ以外の行動は、一切認めません」


僕の自由は、完全に奪われた。あの定期券は、僕を外の世界へ連れ出す魔法の切符であると同時に、僕を縛る鎖でもあった。そして今、その鎖は、より短く、より頑丈なものに作り替えられてしまった。


「分かりましたね」


父の最後の言葉に、僕は、かろうじて頷いた。


自分の部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、僕はその場に崩れ落ちそうになった。


壁に貼られた「合格必勝」の文字が、僕を嘲笑っているように見える。机の上のテキストの山が、僕が乗り越えなければならない絶望的な壁に見えた。この部屋は、もう祭壇ですらない。ただの、牢獄だ。


もう、あの公園には行けない。

もう、彼らには会えない。

もう、あの女の子の、「助っ人くん」と呼ぶ声を聞くことはない。


その事実が、じわじわと僕の心を蝕んでいく。涙が、頬を伝って流れ落ちた。声を殺して泣きながら、僕は自分の無力さを呪った。たった三十分の幸せを守ることすら、僕にはできなかった。


どれくらい泣いただろうか。

涙が枯れ果て、虚ろな気持ちで顔を上げた時、僕はふと、気づいた。


物理的には、もうあの場所へは行けない。けれど。

僕の頭の中に広がる、あの日の記憶は、誰にも奪うことはできない。


僕は、ゆっくりと目を閉じた。

すると、まぶたの裏に、あの公園の光景が、驚くほど鮮やかに蘇ってきた。西日に照らされたグラウンドの土の色。仲間たちの楽しげな笑い声。ボールを蹴る、乾いた小気味よい音。そして、「またね」と手を振ってくれた、彼女の笑顔。


そうだ。

あの時間は、決して無駄じゃなかった。

僕の世界は、家と塾と学校だけでできた、息苦しい三角形なんかじゃなかったんだ。

僕の知らない町に、僕の知らない人たちがいて、そこには僕の知らない穏やかな時間が、確かに流れていた。僕が目指している名門校とは違う価値観で、あんなにも楽しそうに生きている同い年の子たちが、確かに存在したんだ。


その事実は、僕がこの牢獄のような部屋で生きていくための、たった一つの、そして何よりも強い希望になった。


僕は、静かに立ち上がり、机の椅子に座った。

そして、一番上にあった算数のテキストを開く。

それはもう、昨日までの僕ではなかった。


親の期待に応えるためじゃない。誰かに褒められるためでもない。

この息苦しい世界から、いつか必ず、自分の力で抜け出すために。そして、自分の意志で、あの公園のような、心から自由だと感じられる場所を見つけ出すために。


僕の戦う理由は、この日、初めて僕自身のものになった。

目の前に広がる問題の海は、相変わらず深く、暗い。けれど、僕の胸の中には、あの日の夕日と同じ色の、決して消えることのない小さな灯台の光が、確かに灯っていた。


(第一章・了)

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