第6話


自宅の玄関のドアノブに手をかけた時、僕の心臓は冷たい氷を飲み込んだかのように縮み上がった。楽しかった時間の記憶が、一瞬にして罪悪感へと姿を変える。時計の針は、いつもより三十分以上も先を指していた。


「ただいま……」


絞り出すような声で言うと、リビングのドアが勢いよく開いた。


「遅かったじゃない! 何してたの?」


母の尖った声が、僕の鼓膜を突き刺す。僕は、咄嗟に塾で教わった言い訳を口にした。


「ごめんなさい。今日の授業で分からなかったところがあって、先生に質問してた」

「……そう。だったら、先に一本連絡くらい入れなさい。心配するでしょう」


母は疑うような目を僕に向けたが、それ以上は追及してこなかった。僕がこれまで、親の決めたルートを一度も外れたことがなかったからだろう。その信頼が、今は針のように僕の胸をチクチクと刺した。


その夜、僕は机に向かった。目の前には、いつもと同じテキストの山がそびえ立っている。けれど、僕の気持ちは、以前とは明らかに違っていた。ページをめくる指先に、あのボールの感触が蘇る。問題文のインクの匂いに、あの公園の土の匂いが混じるような気がした。


不思議と、集中できた。

以前は、ただ苦役として解いていた問題が、今は違う意味を持っていた。これを終わらせれば。このノルマをこなせば。また、あの場所へ行く口実ができる。僕の心に、「ご褒美」という概念が生まれた瞬間だった。あの名も知らぬ仲間たちと過ごす時間が、僕の退屈な義務に、鮮やかな目的を与えてくれたのだ。


それから、僕の「プチ家出」は、週に一度か二度の、秘密の儀式になった。


塾がある日は、授業が終わるとすぐに例の駅へと向かう。公園に行くと、たいてい誰かがボールを蹴っていた。僕の顔を見ると、彼らは「よお、助っ人!」と当たり前のように声をかけてくれる。僕を誘ってくれた女の子も、よくいた。僕たちは、最後までお互いの名前を知ろうとはしなかった。彼女は僕にとって「快活な女の子」であり、僕は彼女にとって「通りすがりの助っ人」のまま。その、付かず離れずの心地よい距離感が、僕には何よりも大切に思えた。


ある日、彼女に「キミ、サッカー上手いよね。クラブチームとか入ってるの?」と聞かれたことがある。


「ううん。昔、少しだけ」


僕はそう答えるのが精一杯だった。本当は、塾に入るために、大好きだったサッカークラブを辞めさせられたのだ。その事実を口にするのは、あまりに惨めで、できなかった。彼女は「そっか」とだけ言うと、それ以上は何も聞いてこなかった。彼女のそういう、人の心に土足で踏み込まない優しさが、僕を救っていた。


この秘密の時間が生まれてから、僕の日常は少しだけ彩りを取り戻した。母の小言も、父の期待も、以前ほど苦しくは感じない。辛いことがあっても、「でも、あの日が来れば、またあの公園に行ける」と思うだけで、何とか乗り越えることができた。あの公園は、僕だけの聖域だった。


しかし、そんな危ういバランスの上に成り立った平穏は、長くは続かなかった。


きっかけは、些細なことだった。

その日、僕はいつものように公園で彼らとボールを蹴り、急いで帰路についた。駅のホームで電車を待っていると、見慣れた顔が僕の目に飛び込んできた。同じ塾の、同じクラスの男子だった。彼は僕とは違う沿線に住んでいるはずなのに、なぜこんな場所にいるのか。


彼は、僕の姿を認めると、怪訝そうな顔で近づいてきた。


「あれ? お前、なんでこんなとこにいるんだ? こっち方面だっけ?」

「あ、いや……ちょっと、親戚の家に用事があって」


僕の口から出たのは、我ながら稚拙な嘘だった。彼の目は、明らかに僕を疑っていた。


「ふーん。まあいいけど。お前、最近、先生への質問、多くないか? いつも帰るの遅いよな。そんなに分かんないとこあんの?」


彼の言葉には、心配する響きなど微塵もなかった。そこにあるのは、ライバルを値踏みするような、冷たい好奇心だけだ。


「……まあね」


僕はそう言って、会話を打ち切った。やってきた電車に乗り込んでも、彼の視線が背中に突き刺さっているような気がしてならなかった。


そして、運命の日は、その数日後にやってきた。

その日も、僕は秘密の時間を満喫し、後ろ髪を引かれる思いで公園を後にした。駅の改札を抜け、上り方面のホームに立った、その時だった。


「―――あなた」


背後から聞こえた、氷のように冷たい声に、僕の心臓は凍りついた。

僕が、世界で一番聞きたくなかった声。

ゆっくりと振り返ると、そこには、能面のような無表情で僕を見つめる、母が立っていた。


「どうして、あなたが、こんな場所にいるの?」


母の手には、僕が持っているものと同じ、塾のロゴが入った封筒が握りしめられていた。おそらく、塾の保護者会か何かだったのだろう。そして、本来なら塾の自習室にいるはずの息子が、全く反対方向の、見知らぬ駅のホームに立っている。


僕の頭は、真っ白になった。

言い訳も、嘘も、何一つ思い浮かばない。ただ、母の背後に広がる駅の景色が、ぐにゃりと歪んで見えた。あの楽しかった時間の記憶が、音を立てて崩れ落ちていく。


僕の聖域は、こうして、あまりにもあっけなく終わりを告げた。たった三十分の光のために、僕は、これから果てしなく長い闇の中を歩かなければならないことを、この時の僕はまだ、本当の意味では理解していなかった。

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