第5話
僕たちの間に、言葉はほとんど必要なかった。
ボールが僕の足元に来れば、僕は一番近くにいる味方を探してパスを出す。誰かがシュートを決めれば、敵味方の区別なく「おおー!」と歓声が上がった。僕が相手を一人抜くと、「やるじゃん!」と声をかけてくれる。僕はただ、照れくさく笑って、またボールを追いかけた。
彼らの名前も、学年も、好きな教科も、何も知らない。彼らもまた、僕がどこの誰で、どんな重圧を背負っているのか、知る由もない。僕たちは、ただボールを蹴り合うという、その一点だけで繋がっていた。それだけで、十分すぎるほど楽しかった。
僕を誘ってくれた女の子は、特に動きが良かった。男子生徒に当たり負けしない体幹の強さと、常に周囲を見渡している視野の広さ。彼女がボールを持つと、何かが起こるという期待感があった。時折、僕と彼女の間でパスが繋がると、彼女は「ナイス!」と言って、僕に親指を立てて見せた。そのたびに、僕の胸は誇らしいような、くすぐったいような気持ちで満たされた。
どれくらい時間が経っただろうか。商店街のスピーカーから、あの童謡のメロディが流れ始めた。それが、この町での遊びの終わりを告げる合図らしかった。
「あ、もうこんな時間だ」
「やべ、うちの親うるさいんだよな」
一人、また一人と動きを止め、滑り台の上に放り投げていたブレザーを手に取る。僕たちの熱気に満ちていた公園は、急速に日常へと戻っていく。
「じゃあな、また明日!」
「おう!」
彼らは、ごく自然にそんな言葉を交わしながら、それぞれの帰路についていく。僕を誘ってくれた女の子も、髪を束ねていたゴムをほどきながら、僕のそばにやってきた。
「助かったよ、助っ人くん。ありがとう」
彼女は、汗で濡れた前髪をかきあげながら、にこりと笑った。
「ううん、僕の方こそ。楽しかった」
僕は、正直な気持ちを伝えた。心の底から、そう思っていた。今日、この公園で過ごした時間は、ここ数ヶ月、いや、数年間のどの時間よりも、僕にとって価値のあるものだった。
「キミ、またここに来る?」
唐突な質問だった。
「え?」
「だから、またこの公園に来る? もし来るなら、また一緒にやろうよ。いつもこのくらいの時間、誰かしらいるからさ」
彼女の言葉は、「また会う約束」というよりも、もっと気軽な、「もし気が向いたらどうぞ」というような、軽やかな響きを持っていた。それが、僕には心地よかった。
「……うん。また、来るかもしれない」
僕は、曖昧に頷いた。はっきりと「来る」と約束してしまうのが、少し怖かったのだ。この奇跡のような時間が、約束という言葉で縛られた瞬間、色褪せてしまうような気がした。
「そっか。じゃあ、もし会えたら、その時はよろしくね」
彼女はそう言うと、ひらりと手を振って、仲間たちとは違う方向へ走り去っていった。その軽やかな後ろ姿が、暮れなずむ町の景色に溶けて見えなくなるまで、僕はその場で見送っていた。
一人、公園に取り残される。
さっきまでの喧騒が嘘のように、静まり返っていた。象の滑り台も、錆びたブランコも、僕が最初にここに来た時と同じように、ただ黙ってそこにいる。けれど、僕の目には、その風景が以前とは少し違って見えた。ただの「見知らぬ町の公園」ではなく、僕にとって特別な意味を持つ場所に変わっていた。
ポケットを探ると、冷たい金属の感触があった。定期券だ。
それを取り出した瞬間、僕は、自分が帰らなければならない現実世界へと、一気に引き戻された。
家に帰れば、今日の分のノルマが終わっていないことを母に問い詰められるだろう。父は、僕の顔を見て、何かを察するかもしれない。塾の宿題、次のテストの準備、やらなければならないことは山積みだ。
駅へと向かう足取りは、来た時よりもずっと重かった。
けれど、不思議と、絶望的な気持ちにはならなかった。胸の奥に、小さな、温かい火種が残っているのを感じる。あの公園で、名前も知らない仲間たちと分かち合った、短い時間の記憶。彼女が僕に向けてくれた、屈託のない笑顔。
―――また、来よう。
前回、この町を訪れた時に抱いた気持ちとは、少し違う響きを持った決意だった。前回は、ただ「逃げるため」に、また来たいと思った。でも今は、「会うため」に、またここに来たいと思っている。
電車に乗り込み、窓の外を流れる夜景を眺めながら、僕は自分の手のひらを見つめた。ボールを蹴った感触、汗の匂い、高鳴った心臓の鼓動。それらは、僕が「現実」だと思い込んでいた、テキストの文字や数字よりも、ずっと確かな手触りを持っていた。
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