第4話
「そこのキミ。よかったら、一緒にやらない?」
彼女の言葉は、夕暮れの空に溶けていくように、優しく、しかしはっきりと僕の耳に届いた。
「え……」
僕の口から、ようやくそれだけの音が漏れた。それは、肯定とも否定ともとれない、ただの困惑の音だった。
「ねえ、どう? あっちのチーム、一人帰っちゃって人数足りないんだ。お願い、助っ人!」
彼女は屈託なく笑いながら、両手を合わせて拝むようなポーズをとった。その仕草が、あまりにも自然で、僕の警戒心をするりと抜けて懐に入り込んでくる。
塾のライバルたちが見せる、牽制しあうような冷たい視線とは全く違う。学校の友達が見せる、僕の置かれた状況を察して少し距離を置くような、あの気まずい視線とも違う。彼女の瞳には、僕という人間を「同じ年頃の、たまたまそこにいた子」として、ただそれだけで受け入れようとする、純粋な好奇心だけが映っていた。
心臓が、肋骨の裏側を叩く音が大きくなる。
ダメだ。断らなければ。僕はこんなことをしている場合じゃない。家に帰って、机に向かわなければ。テキストの山が、母の顔が、父の新聞をめくる音が、僕を引き戻そうと脳裏に浮かぶ。
でも。
僕の足元には、まだ、あのボールが転がっている。古びて、少し空気が抜けているサッカーボール。白と黒の模様が、夕日を浴びて柔らかく光っている。
僕が小学生になって、親に塾へ行かされるようになる前。毎日のように公園で追いかけていたボール。その感触、蹴った時の爽快感、友達とハイタッチした時の手のひらの熱。僕が忘れかけていた、色鮮やかな記憶の断片が、一気に蘇ってくる。
「僕……、いいの?」
気がつくと、僕はそう尋ねていた。まるで、自分以外の誰かが勝手に口を動かしたかのように、その言葉は僕の喉から滑り出ていった。
「もちろんだよ! なんで?」
彼女はきょとんとして、小首をかしげた。僕の問いかけの意味が分からない、といった様子だ。
「だって、僕、君たちの友達じゃないし……。制服も、違うし……」
僕が着ているのは、地味な公立小学校の私服だ。リュックサックの中身は、夢や希望ではなく、重い参考書で満たされている。光り輝く学園に通う彼らとは、住む世界が違う。そう、口には出せなかったけれど、僕の言葉の裏にはそんな卑屈な思いが張り付いていた。
彼女は、僕の全身をまじまじと見つめ、そして、ぷっと吹き出した。
「変なの。一緒に遊ぶのに、友達じゃなきゃダメとか、制服が同じじゃなきゃダメとか、そんなルールあったっけ?」
彼女は、あまりにもあっけらかんと言い放った。
「名前も知らない人とだって、ボール蹴りあえば、もうそれでいいじゃん。そうでしょ?」
彼女の言葉は、僕がこれまで信じ込まされてきた「常識」や「ルール」を、いとも簡単に飛び越えていった。
「ほら、早く! みんな待ってるよ!」
彼女は僕の返事を待たず、くるりと踵を返して、仲間たちが待つ方へと駆け出した。そして、数メートル先で立ち止まり、僕に向かって大きく手を振った。
「こっちこっち!」
その笑顔に、引力があった。
僕の理性が「行くな」と叫ぶよりも強く、僕の本能が「行きたい」と叫んでいた。あの輪の中に、ほんの少しでもいいから、混じってみたい。あの屈託のない笑い声の一部に、なってみたい。
僕は、ゆっくりと屈み込み、足元のボールを拾い上げた。古びた革の感触が、手のひらにじんわりと伝わってくる。それは、僕がテキストのページをめくる時の、乾いた紙の感触とはまるで違う、温かい、生きたものの感触だった。
気づけば、僕は一歩、フェンスの陰から踏み出していた。
その一歩は、家から、塾から、そして親の期待から、僕をさらに遠ざける決定的な一歩だった。けれど、その時の僕には、そんなことはどうでもよかった。
僕は、ボールを抱えたまま、彼女の後を追って走り出した。肩に食い込む鞄の重さも、家に帰った後に待ち受けているであろう現実も、一瞬だけ忘れて。
「おーい! 助っ人連れてきたよ!」
彼女が仲間に向かって叫ぶ。
「マジ? サンキュー!」
「こっちのチーム入ってくれよ!」
男子たちが、何の躊躇もなく、僕を迎え入れてくれた。彼らの笑顔には、僕が恐れていたような、よそ者を値踏みするような色は一切なかった。ただ、新しい遊び仲間が増えたことを喜ぶ、単純で、純粋な歓迎だけがあった。
僕は、ボールを地面に置き、軽く蹴ってみた。ボールは、僕の思った通りの軌道を描いて、仲間の元へと転がっていった。
「ナイスパス!」
誰かが声をかけてくれた。
胸の奥が、ふわっと温かくなるのを感じた。
僕は、その日から、彼らの名前も知らない、ただの「通りすがりの助っ人」になった。空が完全に紫色に染まり、家々の窓に明かりが灯り始めるまでの、ほんの三十分ほどの時間。それは、僕の人生の中で、最も自由で、最も輝いていた時間だった。
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