第3話
どれくらいの時間、そこに立ち尽くしていたのだろう。
光葉学園の生徒たちの笑い声は、僕の世界には存在しない、遠い国の音楽のように響いていた。彼らが背負っているのは、色とりどりのリュックサックだけだ。僕の肩にずっしりと食い込む、塾のテキストが詰まった鞄のような重さは、どこにも見当たらない。彼らの未来は、おそらく揺らぎようのないレールの上にあって、それは僕の親が必死に敷こうとしているレールと、行き着く先は似ているのかもしれない。けれど、レールの材質も、車窓から見える景色も、全く違うものなのだろう。
不意に、胃の奥が冷たくなるのを感じた。
今、僕がこうしている間にも、塾のライバルたちは一問でも多く問題を解いている。僕が今日登ってきたこの坂道の距離を、彼らは時速に換算し、時間と速さを求める問題を解いているかもしれない。そう思った瞬間、目の前の光景が急速に色褪せていく。ここは、僕のいるべき場所じゃない。こんなものに心を奪われている暇なんてないんだ。
―――帰らなければ。
まるで母の声が頭の中で直接響いたかのように、僕の体は硬直した。早く帰って、今日の復習をしなくては。遅れを取り戻さなくては。焦燥感が、黒いインクのように心をじわじわと侵食してくる。
僕は、レンガ造りの校門に背を向け、駆け出すようにして坂道を下り始めた。後ろから聞こえてくる楽しげな声が、僕を責め立てているように聞こえた。お前は、こちら側の人間じゃない、と。
住宅街を抜け、再びあの商店街のアーケードが見えてきたときには、少しだけ息が上がっていた。心臓が早鐘を打っているのは、走ったせいなのか、それとも罪悪感のせいなのか、自分でも分からなかった。
駅へ急ぐ道の途中、自然と足が、先週見つけたあの小さな公園の方へと向かってしまう。もう一度だけ、あの静かな場所で呼吸を整えてから帰ろう。そう自分に言い訳をして、僕は公園へと続く脇道に入った。
その瞬間、僕の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
先ほど、坂の上で聞いたのと同じ、明るく、屈託のない笑い声。まさか、と思いながら公園の中を覗き込むと、僕の予感は的中していた。
公園の中心で、五、六人の集団がボールを蹴り合っていた。紺色のブレザーは脱ぎ捨てられ、象の形をした滑り台の上に無造作に放り投げられている。夕日に照らされた彼らのワイシャツが、眩しく白く輝いていた。光葉学園の生徒たちだ。坂の上で見た顔ぶれが、ほとんどそのままここにいる。
僕の足は、地面に縫い付けられたように動かなくなった。
公園の入り口、錆びた金網のフェンスの陰から、僕は息を殺して彼らの姿を見つめた。
彼らのサッカーは、僕が知っているサッカーとは少し違っていた。ポジションも決まっていないようで、全員がボールに群がり、奪い合い、ただひたすらにゴールに見立てた木の間を目指している。それは、僕が小学生の低学年の頃、何も考えずに友達と繰り返していた、あの「遊び」そのものだった。
その輪の中に、ひときゆわ目を引く少女がいた。肩までの長さの髪を一つに束ね、男子生徒に負けじとボールを追いかけている。しなやかな身のこなしで相手をかわし、正確なパスを出す。時折、ゴールを外した男子を「へたくそー!」とからかっては、快活な笑い声を響かせていた。彼女の存在は、その場の空気を一層明るく、楽しげなものに変えているように見えた。
羨ましい、と思った。
心の底から、そう思った。
決められたレールの上を走るのではなく、寄り道をし、制服のまま泥だらけになって遊べる自由。男女の垣根なく、ただ「楽しい」という気持ちだけで繋がっているように見えるその輪。それは、僕がとうの昔に失ってしまった、宝物のような時間だった。僕の日常にあるのは、偏差値という名の序列と、合格・不合格という二者択一の未来だけだ。
ぼんやりと彼らを眺めていると、一人の男子生徒が蹴ったボールが、大きく弧を描いてこちらへ飛んできた。ボールは、僕の立っているフェンスのすぐ手前で弾み、勢いを失って、僕の足元でことんと止まった。
心臓が、大きく跳ねた。
拾って、返してあげるべきだろうか。いや、関わってはいけない。僕はただの通りすがりの、ここにいてはいけない人間なんだ。無視して、このまま立ち去るべきだ。
僕が逡巡している、ほんの数秒の間。
「ごめーん、ボール取って!」
太陽のように明るい声が、僕の思考を遮った。
顔を上げると、あの女の子が、こちらに気づいて駆け寄ってくるところだった。少し汗ばんだ額に張り付いた前髪を気にするでもなく、僕を見てにこりと笑う。その笑顔には、警戒心のかけらもなかった。
彼女は僕の数歩手前で立ち止まると、悪戯っぽく片目をつぶって言った。
「そこのキミ。よかったら、一緒にやらない?」
予期せぬ言葉だった。
僕に向けられた、純粋な好意と誘いの言葉。
頭が真っ白になり、何も考えることができない。僕はただ、彼女の真っ直ぐな瞳を見つめ返すことしかできなかった。時間の感覚が、奇妙に引き伸ばされていく。背後では仲間たちの呼ぶ声とボールの音が続いているのに、僕と彼女の間だけ、世界から切り離されたように静まり返っていた。
返事をしなければ。何か、言わなければ。
でも、僕の口から出てきたのは、声にならない、かさかさの空気の塊だけだった。
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