第2話
あれからの一週間は、まるで濁流の中を必死に泳いでいるようだった。
予想通り、月例テストの結果は悲惨なものだった。自己採点の時点で覚悟はしていたものの、実際に赤ペンで引かれた無数のバツ印と、偏差値を示す冷たい数字を目の当たりにすると、呼吸が浅くなる。食卓に置かれた答案用紙の束を前に、母は深いため息をついた。その夜、食卓に並んだのは僕の好物ではなかったし、会話もほとんどなかった。父は何も言わなかったが、新聞を読むその目が、普段よりも厳しく僕を射抜いているように感じた。
「集中力が足りないんじゃない?」
「基本問題の取りこぼしが多すぎるわ」
「このままじゃ、志望校のランクを考え直さないといけなくなるわよ」
母の言葉は、正論という名の鋭いナイフとなって、僕の胸に突き刺さる。僕だって、分かりたくて間違えているわけじゃない。解きたくて解けないんだ。喉まで出かかった言葉を、僕はいつもと同じように飲み込んだ。反論は、火に油を注ぐだけだと、これまでの経験で嫌というほど学んでいた。
部屋に戻っても、テキストを開く気にはなれなかった。机に向かい、ただひたすらに、あの日の光景を頭の中で反芻する。錆びついたアーケード、煮物の甘い匂い、城の精巧な模型、泥だらけでボールを追いかけていた子供たちの笑い声。僕の記憶の中に作られたその「見知らぬ町」だけが、唯一の安全地帯だった。あの場所に逃げ込むことで、僕はなんとか自分を保っていた。母の叱責も、父の無言の圧力も、その町の中までは追ってこられない。
そして一週間後。
塾の授業が終わるチャイムが鳴った瞬間、僕の心臓は高鳴った。今日こそ、もう一度あの場所へ行こう。それは、誰に強制されたわけでもない、僕だけの意志で決めたことだった。
いつもと同じように駅に向かい、僕は迷うことなく下り方面のホームへと続く階段を下りた。前回のような衝動的な行動ではない。はっきりとした目的を持った、意図的な逃避行だった。定期券を改札にタッチする音が、これから始まる秘密の儀式の開始を告げているようで、背筋がぞくぞくした。
電車に揺られながら、車窓を流れる景色を目で追う。見慣れた風景が、徐々に知らない風景へと変わっていく。この境界線を越える感覚が、たまらなく好きだった。五つ目の駅。アナウンスでその名が呼ばれる前に、僕はドアの前に立っていた。
ホームに降り立つと、一週間前と同じ、生温かい風が僕を迎えた。けれど、前回感じたような心細さはもうない。むしろ、帰ってきた、というような奇妙な安堵感があった。
改札を出て、ロータリーを横切り、僕は再びあの商店街のアーケードをくぐった。惣菜屋からは、今日は魚を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。駄菓子屋の店先では、数人の小学生が百円玉を握りしめてうまい棒の味を真剣に悩んでいた。すべてが、一週間前と変わらない、穏やかな日常の風景だった。
前回は、商店街の先にある公園のベンチで時間を過ごした。だが今日は、もう少し先まで歩いてみたかった。この町の、もっと違う顔が見てみたかったのだ。
商店街を抜けると、道は緩やかな上り坂になっていた。左右には、古いけれど手入れの行き届いた庭のある家が並んでいる。僕の住む、同じような形の家が整然と並ぶ新興住宅地とは明らかに違う、歴史と生活の匂いが染みついた静かな住宅街だった。家々の間から、ピアノの練習の音が聞こえてきたり、庭木に水をやる老人と挨拶を交わしたりした。誰も僕に注意を払わない。僕は、この町の風景に溶け込んだ、完璧な透明人間だった。
坂は、思ったよりも長く続いていた。息が少し切れ始め、額に汗が滲む。塾のテキストに出てくる坂道の問題なら、距離と速さと時間を計算できるのに。現実の坂は、ただ自分の足で登りきるしかない。そんな当たり前のことが、僕にはひどく新鮮に感じられた。
坂を登りきると、不意に視界が開けた。
そして、僕は息をのんだ。
目の前に、巨大なレンガ造りの校門がそびえ立っていたのだ。蔦の絡まる重厚な門には、金色の百合の紋章がはめ込まれている。その荘厳なたたずまいは、僕が志望校としてポスターで眺めている、あの名門中学にも引けを取らない威厳を放っていた。
ちょうど下校時刻なのだろう。門の中から、生徒たちが楽しげな笑い声を響かせながら、ぞろぞろと出てくるところだった。僕と同じくらいの小学生らしき子もいれば、明らかに年上の高校生もいる。彼らの制服は、紺色のブレザーで統一されていたが、指定のものではないらしい色とりどりのリュックサックを背負い、靴下の長さもまちまちだった。何より僕が驚いたのは、その表情だった。誰も彼もが、屈託なく笑っている。受験という重圧に顔を歪ませ、参考書を片手に難しい顔で歩く塾の仲間たちとは、まるで人種が違うように見えた。
校門の脇に、磨き上げられた石のプレートが埋め込まれているのが見えた。そこに刻まれた文字を、僕はゆっくりと目で追った。
『光葉学園 初等部・中等部・高等部』
その名前には見覚えがあった。塾の保護者会資料の隅に、参考として載っていた学校だ。中学からの募集はごく僅か。ほとんどの生徒が、初等部、あるいはその前の幼稚舎から内部進学してくる、いわゆる「エスカレーター式」の名門校。僕が目指している、過酷な入学試験を突破しなければならない学校とは、対極にある存在だ。
僕は、その場に立ち尽くした。
ここにも、「名門」はあったのだ。
けれど、そこにある空気は、僕が知っている「名門」を目指すための空気とは全く違っていた。焦りも、嫉妬も、過剰な競争心もない。ただ、穏やかで、伸びやかな時間が流れている。
親が僕に示してくれた「まっすぐな道」。その道の先にあるゴールと、今僕の目の前にある学園は、同じ「名門」というカテゴリーに分類されている。けれど、その中身は全くの別物だった。
舗装された一本道をひたすら走ってきた僕の目の前に、突如として現れた、緑豊かな脇道。その入り口に、僕は呆然と立ち尽くしていた。
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