現実から逃げた先
人工夢
第1話
僕の部屋は、合格という名の祭壇だった。
十二畳ほどの空間は、その目的のためだけに最適化されている。北向きの窓は結露で曇り、外の景色をぼんやりと滲ませるだけで、そこに広がる空の色さえ正確には教えてくれない。壁には、全国統一模試の成績推移グラフ、志望校であるその名門中学の煉瓦造りの校舎が印刷されたポスター、そして母の几帳面な字で書かれた「合格必勝」の半紙が、画鋲で隙間なく留められていた。まるで無数の監視の目に囲まれているようで、息が詰まる。
机の上には、通っている大手進学塾指定のテキストと、それに対応する演習問題集が城壁のように積み上げられている。算数、国語、理科、社会。色分けされた背表紙が、僕の思考を四分割する。今は算数の時間だ。旅人算の応用問題と睨み合っているが、追いかける兄と逃げる弟が、僕の頭の中で混ざり合ってぐちゃぐちゃにもつれ合うだけだった。
「どう? 進んでる?」
ノックもなしにドアが開き、母が顔を覗かせた。盆に乗せたリンゴが、湯気の立つ紅茶の隣でうさぎの形に飾り切られている。僕が幼い頃から、夜食は決まってこのセットだった。うさぎの赤い皮が、まるでこちらを窺う目のように見える。
「うん。まあまあ」
「そう。この前の月例テスト、算数の大問三の(2)、ケアレスミスだったわよ。分かってる問題を落とすのが一番もったいないんだから。見直しの時間をちゃんと確保しなさいって、いつも言ってるでしょう?」
「……うん」
「あと、社会の年号暗記、少しペースが落ちてるんじゃない? このままだと冬期講習までに目標範囲が終わらないわよ。歴史は流れが大事だけど、最後は暗記量の勝負なんだから」
母の言葉は、機関銃のように正確に僕の弱点を撃ち抜いていく。そのすべてが正しく、そして重い。僕の成績は、僕だけのものではない。母の努力の結晶であり、父の期待の象徴であり、我が家の未来そのものだった。リンゴを一口かじる。シャリ、と軽い音が静かな部屋に響くが、味はほとんどしなかった。
父は、母とは違う形で圧力をかけてくる。夜、僕がリビングの横を通りかすると、決まって分厚い経済新聞から顔を上げ、こう言うのだ。
「頑張っているな。父さんも、お前が中学に上がる頃には、もう少し広い家に引っ越せるように仕事を頑張るからな。お前も、自分の目標に向かって、まっすぐ進めばいい」
まっすぐな道。その道は、僕の足元から、あの名門中学という一点に向かって、疑いようもなく続いている。親が、塾の先生が、丁寧に舗装してくれた安全な道だ。けれど、僕にはその道が、ひどく窮屈で、息苦しいものに思えて仕方がなかった。
小学校の友達とは、もうほとんど遊ばなくなった。彼らが放課後、ランドセルを放り投げて公園でドッジボールに興じている時間、僕は電車に乗って大都市にある塾へ向かう。彼らが最新のゲームの話で盛り上がっている時、僕は過去問の難解な文章を読み解いている。話が合わなくなったのは、当然の帰結だった。時々、道でばったり会うと、彼らは少し気まずそうに「よお、勉強大変だな」と声をかけてくる。その声が、まるで違う世界に住む生き物を見るような響きを帯びていることに、僕はとっくの昔に気づいていた。
塾にも、友達と呼べる人間はいなかった。同じクラスの連中は、全員がライバルだ。隣の席のやつが解いた問題数、前の席のやつが持っている参考書、すべてが僕を焦らせるための記号にしか見えない。休み時間に交わされる会話も、次のテストの範囲か、どの学校の過去問が難しいか、そんな話ばかり。誰も、学校であった面白い話や、好きなテレビ番組の話なんてしなかった。
家と塾と小学校を往復するだけの毎日。僕の世界は、この三角形の中に完全に閉じていた。
そんなある日のことだった。
その日の月例テストの出来は、自分でも分かるほどに最悪だった。特に苦手な算数で、焦りからか、ありえないような計算ミスを連発してしまったのだ。自己採点をしながら、血の気が引いていくのが分かった。答案が返却された時の母の顔、そして次回のクラス分け……。想像しただけで、胃が冷たい石になったように重くなる。
塾の帰り。いつもなら、駅に着くと家に向かうバス停に一直線に向かう。しかしその日、僕の足はなぜか、いつもとは反対方向の改札口に向かっていた。僕の手には、塾に通うために親から与えられた定期券が握られている。自宅の最寄り駅から、大都市のターミナル駅までを結ぶ、僕の行動範囲を示す鎖のようなもの。
―――どこか、遠くへ行きたい。
衝動的だった。
自動改札機に定期券をタッチする。軽やかな電子音と共に、僕を遮るフラッパーが開いた。まるで、新しい世界への扉が開かれたような気がした。僕は、下り方面のホームへと続く階段を、駆け下りていた。行き先なんて、どこでもよかった。ただ、この息苦しい三角形から、一秒でも長く逃れたかった。
やってきた各駅停車の電車に飛び乗る。車内は空いていて、窓の外の景色がよく見えた。見慣れた駅が、商店街が、次々と後ろへ流れていく。一つ、また一つと駅を通過するたびに、僕の心臓が少しずつ軽くなっていくのを感じた。
五つ目の駅だっただろうか。駅名表示板に書かれた、全く知らない地名が目に飛び込んできた。僕は、何かに引かれるように電車を降りた。
ホームに降り立った瞬間、むわりとした生温かい風が頬を撫でる。都心のターミナル駅の喧騒とも、地元の住宅街の静けさとも違う、知らない町の匂い。僕は、ゆっくりと改札口へ向かった。外に出れば、どんな景色が広がっているのだろう。期待と、少しの不安が入り混じった不思議な高揚感を覚えながら、僕は自動改札機に再び定期券をタッチした。
ここがどこなのか、僕には分からない。
それでよかった。誰にも知られていない場所で、僕は初めて、深く息を吸い込むことができた気がした。
改札を出ると、小さな駅前ロータリーが広がっていた。数台のタクシーが手持ち無沙汰に客を待ち、バス停にはお年寄りが二人、所在なげに腰掛けている。都心の駅のように、人々が忙しなく行き交う光景はない。時間の流れが、ここだけ緩やかに設定されているようだった。
ロータリーの向こうには、古びたアーケードを持つ商店街が、口をあけて僕を待っていた。迷うことなく、僕はそちらへ足を向けた。アーケードの入り口には「ようこそ〇〇銀座商店街へ」と錆びついた文字で書かれている。銀座、というにはあまりに寂れたその場所は、しかし僕の目にはひどく魅力的に映った。
一歩足を踏み入れると、様々な匂いが混じり合って鼻をついた。惣菜屋から漂う、甘辛い煮物の匂い。乾物屋の、少し埃っぽい出汁の香り。すれ違ったおばあさんの、懐かしい白粉の匂い。僕の日常には存在しない、生活の匂いそのものだった。
シャッターが下りたままの店も多い。けれど、営業している店は皆、それぞれに個性的だった。店先にまで雑誌が溢れ出している本屋、色とりどりのプラスチックケースが壁一面に並ぶ駄菓子屋、ショーウィンドウに精巧な城の模型が飾られた文房具店。僕は、ショーウィンドウに吸い寄せられるように近づいた。そこには、僕がテキストの歴史の資料集で見た城が、細部まで忠実に再現されて鎮座していた。石垣の一つ一つ、瓦の一枚一枚まで作り込まれたそれを見ていると、自分がまるで巨人になって城を見下ろしているような錯覚に陥る。テキストの中のそれは、ただ暗記すべき白黒の写真でしかなかったのに。
しばらく歩くと、小さな公園があった。錆びたブランコと、象の形をした滑り台、そして塗装の剥げたベンチが二つ。僕は、そのうちの一つに腰を下ろした。ぎい、と頼りない音がして、ベンチが少し軋む。
公園では、僕より少し年下くらいの子供たちが三人、泥だらけになってサッカーをしていた。キーパーもディフェンスもいない、ただひたすらにボールを追いかけ、ゴールに見立てた木の間に蹴り込むだけの、ルールも何もない遊び。歓声と、時折上がる言い争いの声が、西日に照らされた公園に響いている。
僕は、それをただぼんやりと眺めていた。
いつからだろう。あんな風に、何も考えずにボールを追いかけたのは。最後に泥だらけになるまで遊んだのは。記憶をたどっても、すぐに塾の授業風景や、模試の結果がちらついて、うまく思い出せない。僕が失ってしまった時間は、今、目の前で太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。
不意に、胃のあたりがずきりと痛んだ。月例テストの、あの絶望的な手応えが蘇る。今頃、母は僕の帰りが遅いことを心配しているだろうか。いや、きっと塾の自習室に残っていると思っているに違いない。そうであってほしい、と僕は願った。家に帰れば、またあの息苦しい日常が始まる。採点された答案用紙、母のため息、父の無言の圧力。
―――帰りたくない。
けれど、僕には帰る場所しかなかった。ポケットの中の定期券は、僕をこの知らない町に連れてきてくれた魔法の切符であると同時に、僕をあの三角形の世界に連れ戻すための鎖でもあった。この区間から一歩でも外に出れば、僕はこの世界で迷子になってしまう。僕の自由は、この定期券の区間内という、目に見えない檻の中でだけ許された、かりそめのものだった。
それでも、今はよかった。
「誰も僕を知らない」。その事実が、傷んだ胃を優しく撫でる薬のように、じんわりと効いてくる。ここでは、僕は「名門中学を目指す、模試の成績が少し落ちてきた受験生」ではない。ただの、名もない子供でいられる。それだけで、十分だった。
空が茜色に染まり、商店街のスピーカーから童謡のメロディが流れ始める。子供たちが、一人、また一人と「また明日な」と手を振って家に帰っていく。公園に、静寂が戻った。
僕も、そろそろ帰らなければならない。
ベンチから立ち上がると、もう一度、商店街のほうを見た。いくつかの店には明かりが灯り、夕飯の買い出しに来たであろう主婦たちの姿が見える。僕が今日、ほんの数時間だけ迷い込んだこの穏やかな世界。
「また、来よう」
誰に言うでもなく、僕は呟いた。
それは、僕が僕自身と交わした、初めての約束だった。
この秘密の場所が、明日からの僕を支えてくれる、たった一つの希望になる。そんな予感が、胸を締め付けた。
駅に戻り、上り方面のホームに立つ。やがてやってきた電車は、僕を乗せて、現実世界へと滑り出した。
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