第2話:小さな声を聞くために
光の庭園で決意を固めたものの、美優の胸には重たい霧がまだ残っていた。
(……破滅を避けるって言っても、どうしたらいいのか全然分からない)
屋敷の空気は依然として冷たい。廊下を歩けば息を呑まれ、目を逸らされる。
小説の記憶は断片的にあるが、それをどう使えばいいのかは見えなかった。
考えあぐねていたある日、美優は侍女や従者を広間に集めた。
自分の言葉で、最初の一歩を踏み出すために。
「……私はずっと自分のことで手一杯で、周りに目を向けてこなかった。だからこの屋敷のことも、みんなのことも分からないまま。……でも、このままでは変わらない。これからは、あなたたちの声を聞かせてほしいの」
沈黙が広間を覆う。誰も目を合わせず、気まずげに立ち尽くす。
そんな中、背後に控えていたエマが、おずおずと声を上げた。
「……最近のエカテリーナ様は、私たちに目線を合わせようとしてくださっています。だから……」
か細い声だったが、その響きは広間に落ちた重さを少しだけ揺るがした。
美優は微笑み、静かに返す。
「……エマ、ありがとう」
その一言で、侍女の一人が小さく咳払いをして、言葉を続けた。
「……洗濯場の排水が、ずっと詰まりがちでして」
別の従者が口を挟む。
「井戸の滑車も、きしむ音がひどくなっております」
ぽつぽつと声が上がり始める。
今まで胸の内にしまい込まれていた小さな不満や困りごと。
それらを耳にした瞬間、美優の胸の霧が、ほんの少し晴れた気がした。
(……そうか。何をすべきか分からないなら、まずは家のことから始めればいい。屋敷の中に目を向けることなら、私にもできるはず)
皆の声を受け止めるように、美優は大きく頷いた。
「ありがとう。ひとつずつ、一緒に考えていきましょう」
その言葉に、視線を交わし合う人々の表情がわずかに和らぐ。
わずかな変化――それでも確かに、ここから何かが動き始めるような気がした。
⸻
そうして一晩が過ぎ、空が白み始める頃、美優は最初に挙げられた「井戸の滑車」を確かめるべく、中庭へと足を運んだ。
従者数名が同行し、石組みの深い井戸の上に据えられた木製の滑車を指し示す。近づいた途端、風に揺れる縄が擦れ、古びた木がきしむ音が耳に届いた。
美優は桶を覗き込み、指先で縄に軽く触れた。ざらついた感触が皮膚に残る。
「……これでは、怪我をする人が出てもおかしくないわね」
従者の一人が深く頭を下げる。
「はい。木も縄もだいぶ傷んでおります。ですが、どう対処すべきかは……」
言葉を濁すその姿に、美優は小さく頷いた。
「なるほど……。なら、大工に見てもらって修繕しましょう」
従者たちは驚いたように顔を見合わせ、すぐに恭しく頭を下げる。
ただ問題を聞き流すのではなく、自ら足を運び、目で確かめ、判断を下す。
それは今までのエカテリーナにはなかった姿だった。
⸻
屋敷へ戻る途中。
美優はふと立ち止まり、井戸を振り返った。
「……こうして実際に見てみると、私が何も知らなかったことばかりね」
ぽつりとこぼした声は、誰に向けたものでもなく、自分自身への独り言だった。
その言葉に、隣を歩いていたエマが小さく目を瞬かせ、ためらいながらも口を開く。
「……今日、皆さんが意見を言えたのは、お嬢様がちゃんと耳を傾けてくださったからだと思います」
美優は足を止め、横顔を見つめて微笑む。
「そうかしら。でも……そう言ってもらえると嬉しいわ」
エマの瞳が揺れ、頬が赤らむ。
その小さな変化が、美優の胸に温かく響いた。
かつては恐れられ、遠ざけられていた令嬢。
けれど今、その足元で確かに小さな一歩が踏み出されていた。
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