第1話:目覚めの異世界
朝の光が、天蓋付きベッドのレース越しにやわらかく差し込んでいた。
山田美優は、重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。
そこに広がっていたのは、見知らぬ天井。
漆喰に繊細な模様が刻まれ、深紅のカーテンが垂れ下がっている。
指先に触れるシーツは絹のように滑らかで――どこからどう見ても自分の部屋ではなかった。
(……ここ、どこ? ホテル? いや、そんなはずない。昨日は確か……)
仕事帰りの交差点。眩しいライト。衝撃。そして暗闇。
そこで記憶は途切れていた。
胸の奥がざわめいたその時、扉が静かに開く。
白い衣をまとった女性が姿を現し、深く一礼する。
「お目覚めになられましたか」
美優は思わず上体を起こしかけ、声を漏らす。
「……え? あの、あなたは?」
女性はわずかに眉を動かしたが、すぐに表情を整え、淡々と答えた。
「侍女長のマルグリットにございます。……目覚められたばかりゆえ、記憶がまだ定かでないのでしょう」
そう言って彼女は背後に控えていた小柄な少女を前へ押し出す。
「世話には見習いをあてがいます。名はエマ。しばらくは彼女に務めさせますので、必要があれば申し付けください」
マルグリットはそう言い残し、扉を閉めた。
部屋に残されたのは見習いのエマひとりきり。
本来なら大国の、しかも大公家の令嬢に複数の侍女が付くのが当然。
それが見習いひとりだけというのは、あまりに手薄な取り計らいだった。
けれど美優には、その異常さに気づくはずもない。
「世話をする」と言われても、どういうことなのか分からず、ただ戸惑うばかりだった。
エマと呼ばれた少女は、緊張のあまり声を震わせて深く頭を下げる。
「……っ、エカテリーナ様……」
美優はその呼び名に一瞬きょとんとした。
(エカテリーナ……? 誰のこと? 私の名前は、山田美優のはずなのに……)
視線を上げると、エマが不安げにこちらを窺っていた。
その怯えた様子に、美優はとっさに言葉を探し、微笑みを添える。
「……えっと、エマ、だったわよね。よろしくね」
エマの肩がぴくりと震えた。
叱責ではなく、穏やかな声をかけられることが意外だったのだろう。
おずおずと「は、はい……」と返す声が、部屋の中に小さく響いた。
⸻
数日が過ぎ、体を起こして歩けるようになった頃。
屋敷の廊下を進むと、すれ違う侍女や従者が一様に息を詰め、深く頭を下げて足早に去っていく。
庭に出れば、庭師すら顔を伏せ、道具を持ったまま立ち去る。
(……私、そんなに怖がられてるの?)
苦笑がこぼれる。けれど胸の奥には、小さな痛みが残った。
常に半歩後ろに控えるのは、エマただひとり。
ぎこちなくも懸命に世話を続ける姿が、かえって不憫に映る。
⸻
ある日の午後。窓の外を眺めていた美優は、思わずつぶやいた。
「……ここ最近ずっとお天気がいいわね。体調がもう少し戻ったら、外に出てみたいな」
その言葉に、控えていたエマがびくりと肩を揺らした。
「は、はいっ」と慌てて返事をすると、そそくさと部屋を飛び出していく。
美優が首をかしげて後を追うと――。
廊下の先で、大きな花瓶を抱えたエマが足をもつれさせ、水と花を床に散らしてしまった。
「も、申し訳……!」
顔を真っ青にして震えるエマ。きっと「叱られる」と思ったのだろう。
美優はすぐにかがみ込み、花を拾い集めて手渡した。
「大丈夫よ。怪我はない? 気をつけてね」
その声音は穏やかで、責める色はなかった。
エマは信じられないというように目を見開き、何度も頭を下げながら片付けに走った。
⸻
その夜。台所の片隅では、火を落とした後の鍋を磨きながら、侍女たちが小声で囁き合っていた。
「聞いた? あのエマが花瓶を落としたのに、叱られなかったって」
「まさか……エカテリーナ様が見逃すなんて」
「信じられないけど、見た子がそう言うんだから……」
半信半疑のささやきが、波紋のように広がっていく。
“悪女”と恐れられていた令嬢が、少しずつ違う顔を見せ始めている――その噂は、屋敷の隅々へと伝わっていった。
⸻
さらに数日後。
体調も戻り、屋敷の外へ足を運べるようになった美優に、エマがおずおずと声をかけた。
「……あの、以前“外に出たい”と仰っていましたから……もしよろしければ、“光の庭園”をご覧になりませんか。大公家が代々管理している場所で……」
「光の庭園……?」
その名を口にした瞬間、美優の胸に小さなざわめきが走った。
(……どこかで聞いたことがある……もう少しで思い出せそうなのに……)
エマはさらに続けた。
「そこには昔から言い伝えがあるんです。黄昏の光に包まれた庭で出会った二人は、必ず結ばれる、って」
美優の頭の奥で、何かがかすかに形を取り始める。けれどまだ曖昧で掴みきれない。
そのとき、不意にエマが顔を上げて呼びかけた。
「……エカテリーナ様?」
その名を聞いた瞬間、散らばっていた欠片がひとつに繋がった。
光の庭園、言い伝え、結ばれる、そして――エカテリーナ。
(……そうだ。『暁の帝と花冠の后』……!)
何度も読み返した物語。
皇帝と后が愛を誓い、悪女と呼ばれた令嬢エカテリーナが破滅を迎える物語。
(……最後は殺されちゃうんだ。しかも、愛している人に……)
ぞっとした。
私がそのエカテリーナってことは、このままいけば――私が殺されるってこと?
そんなの、絶対に嫌だ。
それに――私が大好きだったエカテリーナが、愛した人の手で終わらせられるなんて、あまりにも哀しすぎる。
そんな結末を背負わせたままなんて、絶対に認められない。
(……変えてみせる。私自身のために。そしてエカテリーナのために。あの物語の結末は、必ず覆してみせる!)
夕陽を浴びた赤い瞳が、決意に燃える光を宿す。
光の庭園の黄昏の中で、美優の新しい人生が静かに幕を開けた。
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