第3話:家族との距離

 井戸を確かめた翌日、美優は執務室へ呼ばれた。

 執事から「ご令嬢が従者を集められた後、井戸まで行かれたようで」と報告があり、それが大公の耳に届いたのだという。

 大公からの呼び出しは少し恐ろしかったが、美優自身も直接話しておきたいと思っていたので、願ってもない機会だった。


 重厚な扉を押し開けると、帳簿と地図を広げた大公が机に座し、大公子アレクセイが窓辺に立っていた。


「来たか」

 低く響く大公の声。威厳を帯びているが、感情はうかがえない。


 美優は裾を整え、深く一礼した。

「はい。井戸の件はすでにお耳に入っているかと存じますが……木も縄も傷んでおり、このままでは危険かと」


 大公は一瞬だけ瞳を動かし、美優を見据えた。

 驚きの色を宿しながらも、やがて短く頷く。

「……承知した。修繕の手配は私からしておこう」


 アレクセイが片眉を上げ、口の端をわずかに緩めた。

「ほう……お前が屋敷の不具合を口にするとはな。珍しいこともあるもんだ」


 からかう声音に、美優は苦笑を浮かべるしかなかった。


 それでも視線を逸らさず言葉を続ける。

「これまで私は、自分のことばかりで、屋敷や領地のことを知ろうとしませんでした。……でも、私は変わりたいんです。だから、これからは私にも教えてほしいのです。屋敷のこと、領地のこと、そして皆のことを」


 大公は帳簿に視線を落とし、返事をしなかった。

 けれどアレクセイは父の横顔を見て、その沈黙の奥にある想いに気づいた。

 言葉にはせずとも、大公は娘の変化を喜んでいる――そう確信したのだ。


「……なら、まずは屋敷のことから覚えるんだな。領地のことはその先だ」


 皮肉めいた声音。だが突き放す響きはなかった。



 部屋へ戻ると、その前に大公妃が立っていた。

 扇を手に、まるで待ち構えていたように。


「お母さま……?」


「……井戸へ行ったそうね」

 穏やかながら厳しさを含んだ声音。


 二人きりで部屋に入り、母は椅子に腰を下ろした。

「令嬢が従者の声に耳を傾けるなど、聞いたことがありません。周囲も戸惑うでしょう。……けれど、耳を澄ませること自体は決して無駄ではないのでしょうね」


 美優は胸が温かくなるのを感じ、深く礼をした。

「ありがとうございます、お母さま」


 母は扇を閉じ、わずかに声を和らげた。

「これから先、あれこれ言う者は必ず出てきます。けれど――今のあなたなら、歩みを形にできるはず。胸にある思いを恐れず進みなさい」


 その言葉に背を押されるようにして、美優の胸の内に静かな決意が芽生えていく。

(……私、ちゃんと向き合わなきゃ。この家族と、屋敷と、みんなのことに)


 小さな一歩。

 けれど確かに彼女を変え始めていた。

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