四月一日(金)

 いつの間にか僕はベッドに潜り込んでいたみたいだ。毎度ながらその記憶が全然無いことに驚く。人間の記憶とは曖昧の極みだ。仮に、千人の人間にたっぷり十年くらいの時間を費やされて、「君は殺人を犯した」と言われ続けたら、僕は確実に殺人犯になってしまうだろう。

 時計を見る。起きなければいけない時間を大幅に過ぎていた。最近の寝不足が祟ったのか、一度も起きることなくこんな時間になってしまった。

 飛び起きた僕は、スエットの上下からすばやくジーパンとパーカーに着替える。ローテーブルの上の携帯電話を手に取る。店長に、「すみません。寝坊しました。少し遅れるかもしれません」とメールを打った。

タバコをジーパンのポケットに収めている時、ローテーブルの上のノートに目がいった。開かれたページには僕の文字が並んでいる。作りかけていた曲の歌詞が乱雑な文字で書き連ねられていた。コード進行を表すアルファベットが歌詞の上に書かれている。ボールペンでグリグリと抹消された文字も点在する。曲作りと格闘した証拠として充分すぎるそのページは、遠目で見ると白黒で書かれた抽象画のようにも見えた。

 その中に見慣れない文字が並んでいた。


〝私は地震で死にました。〟


 その一文は僕の文字達に紛れて存在していた。

 力なくプルプルと震えながら書かれたようなその字は、明らかに自分の字ではない。ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返した僕の言葉の羅列の空白を埋めるように、その字は存在していた。記憶を振り返るが、そんな文字を自分で書いた記憶は無かった。

 パニックを起こした脳みそを片隅に追いやろうとする。今は一刻も早く店に到着しないといけない。店長は大抵のことでは怒らないが、遅刻に対してだけは厳しい人だ。そして今は、急げば間に合うかもしれないギリギリの時間だった。ダウンジャケットを羽織り、もう一度だけその文字に目をやってから僕はアパートを出た。

 バイクで下北沢に向かいながら、グルグルと頭の中で色んな可能性が渦巻いた。先ず、自分があの文字を書いたという可能性だ。寝惚けながら自分で書いたのかもしれないと考えた。しかし、その考えはすぐに違うと思った。どんなに深く記憶を辿っても、そんな文章を書いた記憶が僕には無かった。何よりあの字は僕の字ではない。右下がりのあんな字を僕は書かない。最後に書かれた『。』と文章のバランスもおかしかった。文字の大きさに対して『。』の大きさが異様に大きかった。そもそも僕は歌詞を書く時、文章の最後に『。』は付けない。

 次に考え付いたのが誰かのイタズラという可能性だ。これもかなり考えにくいことだったが、あの文章を自分で書いたという考えよりは可能性があるように思えた。今日がエイプリルフールであることも思い出した。真一ならふざけてやりかねない。真一は一度だけ僕のアパートに来たことがある。そういえば昨日も僕はアパートの鍵をかけていない。僕は自分が部屋にいる時は鍵をかけない。ワンルームのアパートに泥棒が入るとも思えないからだ。

 しかし何故あの文章だったのだろう。『私は地震で死にました。』という文章だったのだろう。真一ならもっと違う文章を書いたはずだ。それがどんなものなのかは思いつかなかったが、少なくとも、〝私は地震で死にました。〟ではないと思った。

それならば一体誰なのだろう?

 考えれば考えるほど分からなくなった。信号が青になるのを待っている時、鼓動が早く、そして存在感を持って鳴っているのを感じた。何か重要なことが自分から抜け落ちているような気になった。

 かなりのスピードを出したおかげか、遅刻はせずに済んだ。店長の顔を見た瞬間、「まさか店長が?」という疑念を抱いたが、すぐに自分の中で打ち消した。結婚して小さな子供までいる店長がそんなに暇な訳が無い。

 色々な可能性を自分の中で探しながらオープン準備に取り掛かった。アルコールの発注をしたり、店舗の前に出す看板を書いたりした。店長に頼まれてトイレットペーパーとガムテープを買出しに出た。

真一にメールで、「エイプリルフールだからってやりすぎじゃない?」とかまをかけてみた。返ってきたメールは、「どういうこと?」だった。やはり真一ではないのか? だったら誰だ? 疑問がとうの昔に恐怖へ変わろうとしていた。

 上の空で仕事をこなした。二度、ドリンクのオーダーを間違えた。こんなことは初めてのことだった。


 バイトを終え、アパートに戻ると真っ先にノートの文字に目をやった。その文字をもう一度よく見ることによって何かの記憶が蘇ってくれることを祈った。

驚愕した。

 文字が増えていたのだ。


〝私は地震で死にました。信じてください。〟


 一文が増えている。確かアパートの鍵はかけて行ったはずだ。今さっきも鍵を開けてからこの部屋に入った。手にその感覚がはっきり残っている。この部屋の鍵を持っているのは僕だけのはずだ。僕以外の人間でいるとすれば大家か不動産屋だけのはずだ。しかしそんなことは考えにくい。こんなことは大家や不動産屋が留守中に勝手に入ってすることではない。もしそんなことがあるのならそれは大問題だ。

「うそ…」

 僕は思わずそう呟いた。

 すると次の瞬間、目を疑う現象が起きた。

 カタッとボールペンが動いたのだ。そしてそれは小刻みに揺れながら起き上がった。まるでテレビの中のマジックを見るような感覚だった。呼吸を止めて僕はそれを凝視する。やがて垂直になるまで起き上がるとボールペンはノートの上に文字を書き始めた。ゆっくりとゆっくりと線が増えていく。誰かが操作している感じではなかった。ペン自体に小さく頼りない命が吹き込まれたような動きだった。


〝本当です。〟


 今回も最後に『。』が付いた。『。』を書き終えると力尽きたようにパタッとボールペンは倒れた。

「地震で死んだって、今回の? それじゃ君は幽霊?」

 僕のその問いかけに対してまたボールペンが動いた。今度はさっきよりも若干起き上がるのが早くなった気がした。


〝たましい。〟


 文字を書き終わった後、ボールペンはまた吊られていた糸が切れたようにパタッと倒れた。夢を見ているような感覚が、少しずつだが現実に向かって綱渡りをしている。僕は無言になり、心を冷静な部分へと必死に導こうした。ここに誰かがいる。その誰かは今回の震災で死んだと言っている。僕は今まで心霊現象や超常現象は信じない人生を送ってきた。しかしこれは目の前で実際に起こっている出来事だ。夢の中でもなければ空想の中でもない。手を伸ばせば、つい先ほどひとりでに立ち上がり字を書いたボールペンに手を触れることが出来る。そのボールペンは自分のことを『霊』ではなく『たましい』と言っている。何度見直してみても書かれた文字が消えることもなかった。

「つまり君は今回の震災で死んで、魂となってここにやって来たと言うんだね。男? それとも女? 年齢は? 名前は? どこで死んだの?」

 再びボールペンが立ち上がる。


〝女。十八才。福島県郡山市。杉田唯香〟


 空気が少し動いた気がした。

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