三月三十一日(木)

 営業が終了し、ホールの掃除が終わった。PAがスピーカーのチェックを始める。

スタッフルームで帰る準備をしている時に、店長が大きく伸びをしながら、

「明日はどんな嘘をつこうかな」と言った。

 時刻は午後十一時四十八分。もうすぐ今日という日が終わる。

「どうしてですか?」という僕の質問に対して店長は、「だって明日は四月一日でしょ。エイプリルフールじゃん」と楽しそうに答えた。なるほど世間にはそんな日があったなと思う。高校の時、付き合っていた彼女に、「別れよう」と真顔で嘘をついて大事件になったのを思い出した。あれ以来、僕はエイプリルフールに嘘をつくのを封印している。

「俺、毎年かなりの嘘をついてるから、友達とかは全然信じてくれないんだよね」

 そう言うと店長は得意気に笑った。三十五歳の無邪気な笑顔はそれだけで好感が持てる。目尻に刻まれた笑い皺は良い年齢の重ね方をしてきた大人の証拠だ。それは人生を多く笑ってきた人間でないと出来ない皺だった。髭を生やしハーレーに乗っている。結婚していて、昨年、男の子も産まれた。人生を心から楽しんでいる人だ。

「今までどんな嘘をついてきたんですか?」

 僕はタイムカードを押すとGREGORYのリュックを背負いながらそう聞いた。

「うーん。俺はかなりの上級者だよ。ギリギリのところをいくからね。例えば、ビートたけしがいよいよ衆議院議員に立候補するらしいとか、原辰則は実は本名ではないだとか、ジミー大西と大西ライオンは親戚らしい、といった微妙で分かりづらい嘘を真顔でつくんだよ。嘘だって言ってないから今でも信じてる奴もいるかもしれないね」

 店長はそう言った後、タバコに火を点けた。狭いスタッフルームに白い煙が舞う。僕は、「ひどいですね」と言って笑った。

「ところでバンドの調子はどう?」

 急に真面目な顔になって店長がそう言った。店長はいつも自分のペースで話題を変える。

「まぁまぁです。新曲もボチボチ出来てますし」

「そうか。アレンジまで出来たら一度聴かせてみろ」

 彼の特徴の一つである鋭い目が僕を真っ直ぐに見た。

「はい、出来たら聴かせます。それじゃお疲れさまです」

 元気にそう言って僕は店を出た。店長が自分のバンドを気にかけてくれているのが嬉しかった。


 下北沢からアパートのある成増まではバイクで三十分ちょっとだ。帰りは夜中になる為、交通量も少ない。行きよりも短い時間で帰ることが出来る。まだまだ寒い夜中の環八を北上する。井荻トンネルを抜けて信号待ちをしていると公園に咲く桜が見えた。充分な光ではないが街灯に照らされている。

 アパートに帰ってくると、インスタントのコーヒーを入れた。エレキギターをケースから出し、曲作りを始める。築年数は経っているが、鉄筋コンクリート造りという理由でこのアパートを選んだ。アンプに繋がなければ多少の音を鳴らしても苦情は来ない。これが木造のアパートならそうはいかないのかもしれない。バンドのボーカルである真一が住む高円寺のアパートでは、鼻歌を歌っているだけで壁を叩かれる。

ノートを広げて歌詞を考え、コードをその上に書き込んだ。明後日のスタジオリハーサルまでに一曲作ってくるとメンバーに約束していた。明後日はスタジオを四時間押さえてある。僕が骨格を作った曲のアレンジを皆で考えることになっていた。

 朝になっても曲は出来なかった。途中、行き詰まって部屋にあるCDを聴き返したりしているうちに朝が来た。僕は曲作りに妥協したくない。もう少し良い歌詞を、もっと素晴らしいメロディーを、とやっているうちに時間はあっという間に過ぎてしまう。だから僕は朝に眠りにつくことが多い。遮光カーテンはその為に購入したものだ。隙間からかすかに入ってくる光が、時間の経過を教えてくれる。日が昇ってからかなりの時間が経っていた。時計を見ると午前九時を過ぎている。眠らないといけない。今日もバイトだ。そう思いながら、もう少しだけと思いギターを鳴らし始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る