四月二日(土)

 結局、明け方までノートとボールペンを使っての彼女との会話は続いた。彼女は三月の頭に高校を卒業して、この春から音楽専門学校のボーカル科に行く予定だったらしい。

 僕より五歳年下のその彼女は、春休みを利用して東京から福島の祖母へ会いに行った時に震災にあったと言った。生まれも育ちも東京。町田市で両親と三人で暮らしていたらしい。

 話を進めていくにつれてボールペンの動きが少しずつスムーズになっていった。聞くと、〝慣れてきた。〟との返答があった。「どうしてここに来たの?」という問いに彼女は〝運命。〟とだけ書いた。それに対して僕は深く追求したかったが、彼女は教えてくれなかった。そして、「エイプリルフールに来たのはわざと?」と聞くと、〝たまたま。〟と答えた。使用したノートのページ数が見開きで三ページ一杯になった時、僕は眠ることにした。その時には完全に一連の不思議な出来事を実際の出来事として受け入れられていた。いや、受け入れられたのではない。僕は受け入れることを決めたのだ。目の前で実際に起こっていることだから仕方が無かったのだ。漫画でよくやるように頬っぺたはつねらなかったが、こっそり太ももをつねってみた。しっかりとした痛みがそこにはあった。

 昼過ぎに起きた。おそるおそる「おはよう」と独り言のように言うとボールペンが動き、〝オハヨー!〟とノートに書かれた。やはり夢ではない。

やりとりを重ねるにつれ文体がくだけてきたように感じた。なるほど、ここにいる何者かが十八歳だというのにも頷ける。

 僕はテレビを横目で見ながら準備をした。今日は高円寺のスタジオでバンド練習がある。部屋を出る前にノートに向かって「行ってきます」と言った。ボールペンが動いた。

〝気をつけてネ!〟と文字はそう言った。


 背中にギターを背負いバイクに乗って高円寺に向かう。顔に風を受けながら先ほどまでの不思議な体験を思い返した。目の前で起こっていることならまだしも、アパートから出て日常の世界に出ると現実に起こった出来事だという認識から遠ざかっていく気がした。

 しかし、昨日バイトに向かう最中にあった恐怖はもう無かった。それよりワクワクするといった感情の方が大きくなりつつあった。現実に目の前に起こっている出来事は認めないといけないし、もしこのことが現実ならば、それは少し楽しいことなのかもしれない。

 良い天気だ。風が気持ちよい。

 バイクに乗っている時、頭は普段より冴える気がする。エンジンが高回転しているのに僕の思考も引っ張られるのかもしれない。不思議な出来事と過去の記憶、そしてそれらに対する思考の反芻によって、去年自分の身に起きた不思議な体験を思い出した。

 その体験は僕の記憶にまだ新しい。

 それはある友達の夢から始まった。高校在学中に一緒にバンドをやっていた大森という友達の夢だった。大森はマッチ棒のような体型で身長の高い天然パーマの奴だった。大森と組んでいたバンドでは色々な曲のコピーをした。ミスターチルドレンからラモーンズまで。彼は歌がとても上手かったが、音楽の道には進まず将来は介護の仕事がしたいと言っていた。

 僕は夢の中で、ごった返した新宿の駅構内にいた。ライブハウスにライブを観に行く途中だった。大幅に開演の時間が過ぎていて、急いでいた僕は行きかう人にぶつかりながら進んでいた。なかなか前に進めなかった。何故だか全ての人が、自分の行きたい方向から向かってくる。邪魔で仕方がなかった。その中で、少し先に僕と同じ方向に向かう背中があった。その時は誰だか分からなかったが、僕はその背中に追いつこうとした。しかし、その背中はどんどん離れていった。そしてその姿が見えなくなる一瞬前に彼は振り返った。それが大森だったのだ。地元にいるはずの大森がどうして東京にいるのだろうと思った。

 場面が切り替わり、僕はライブハウスのホールの扉を開けるシーンだった。開けるとそこに人はいなかった。その代わり僕の身長と同じくらいの白い菊の花が客席を埋めていた。無音の中、ステージを見ると大森が歌っていた。無音の歌を歌っていた。楽しそうに歌う大森と目が合った。彼は僕の顔を見て二度頷いた。

 大森が交通事故で死んだという電話が掛かってきたのは、目覚めた僕がベッドの上で夢の記憶を辿っている時だった。

 その時、もしかしたら僕には普通の人にはない何かしらの力が備わっているのかもしれないと思った。

 僕に霊感は無いが、今回の不思議な出来事は、そんな僕の力と関係しているのだろうか?


 結局、新曲を持っていくことが出来なかった。

そんな僕に対するメンバーの風当たりは少々きつかったが、練習自体はスムーズにいった。休憩がてら始めたセッションで新曲のアイデアも浮かんだし、皆のテンションも良い感じがした。

 バンドは一人でするものではない。何人かが一緒に音を出して初めてバンドなのだ。だからこそ人間関係がとても大事になってくる。


 午後五時に練習が終った後、真一と二人でラーメンを食べに行った。ベースのヒロトとドラムの金田はこの後バイトらしい。

「こないだのメール何だったんだよ」

 ラーメン屋の外に置いてあるベンチに座って、真一が食後のタバコを吸いながら聞いてきた。店内は禁煙で、真一も僕もヘビースモーカーだ。この店でラーメンを食べた後は、必ずこのベンチで一服してから立ち去ることにしている。

「何でもないよ。それより嘘ついた?」

「嘘?」

「おとといエイプリルフールだっただろ? ウチの店長なんて前の日からどんな嘘をつくか考えてたんだぜ」

「エイプリルフールかぁ。そう言えばついてないね。嘘」

 大量の煙を豪快に吐き出しながら真一が答える。彼の人間性がタバコの吸い方にもそのまま現れている気がする。

「真一はそんな行事、好きそうなのに」

「嘘つけばよかったね。洒落にならないやつ。そういうの下手くそだから俺がついたらすぐバレそうだけど」と言って笑った。

「確かに」と僕も笑う。

「そういう雄太は嘘をついたのかよ?」

「いや、ついてない。でも女がウチに来たよ」

 考えるよりも先に言葉が出た。

「嘘だろ? まじかよ?」

 真一の顔が一瞬で驚きの顔に変わった。

「嘘じゃないよ」

「女が出来たのか?」

「そういうわけじゃない」

「一晩限り?」

「そういうわけでもない」

「なんだそれ?」

「微妙な関係なんだ。説明するのが少し難しい。まぁそのうち話すよ」

「ふーん。まぁいいや」

 話をはぐらかされているのが気に入らないのか、僕の得意気な話し方が気に食わないのか、それ以上真一は追求してこなかった。真一は常に人より優位に立ちたがる。こんなふうに隠し事をされるのも好まないが、媚びてまで人の秘密を知ろうともしない。僕は追求されても話す気は無かったが、それ以上追求されなかったことに対して、少し物足りない気もした。

 真一はつまらなさそうにタバコの煙を真上に吐き出していた。

その煙を見ながら僕は少し浮かれている自分に気が付いた。

 ラーメンを食べた後は真一の住んでいるアパートに行った。偶然、明日が二人とも休みの日だったので飲もうということになったのだ。駅前の酒屋で買ってきた缶ビールを飲んだ。買ってきた缶ビールが無くなると、ふらふらした足取りで近くのコンビニに向かった。お金を出し合って焼酎を買った。隣の住人から「うるさい」と四回壁を叩かれた。時折、僕は頭の片隅でアパートに存在している『杉田唯香』を思い出した。

 明け方まで飲んで、いつの間にか寝てしまった。昼過ぎに起きて真一の部屋を出た。真一はまだベッドで寝ていた。

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