第三章

第24話 氷の心、正義の槌1

「お前、ポチじゃね?」


 スーパーからの買い物帰り、歓楽街を通り抜けようとしていたときに投げかけられたその声に、健太郎は血の気が引くのを感じた。


 前期試験の結果は良好。友人関係も良い人に恵まれたし、映画研究会の活動はとても楽しい。今まで恋愛などできなかったが、気になる人もできた。

 嫌な思い出の多い地元から離れ、思い切って明るく振る舞うようにしたら、ようやく全てがうまく回り始めた。


 何もかもがうまくいくような気がしていた。

 大袈裟だが、できないことなど何もないような気さえもしていた。

 ようやく過去を忘れて前を向いて生きていけると思い始めていた。


 それなのに、その野卑な声は彼を一瞬にして過去に引き戻した。


「おーい。無視してんなよポチ」


 背中に手を置かれる。そこから全身に氷が回る。

 力任せに振り向かされ、健太郎はニヤニヤした三人の男の顔を見る。

 服も髪も記憶のものより派手になっているが、その悪意に満ちた顔は何も変わらない。


 健太郎は声も出せない。

 ブルブルと震えるだけで、強張った目で男たちを見つめ返すことしかできなかった。


「何とか言えよポチよお。久しぶりだってのにつれねえじゃねえかよお」


 男は健太郎の肩に腕を回し、もう片方の手で健太郎の鳩尾を小突く。かつての痛みの記憶が戻り、健太郎は恐怖で竦み上がった。


「あーあ。ブルっちまってるじゃねえか可哀想に。お前のこと嫌いだってよ」


 別の男が薄ら笑いを浮かべる。


「あー? そんなことねえよなあポチ? 俺達オトモダチだもんなー?」


 尚も健太郎は何も返答しない。


「何とか言えよてめえこら」


 それが面白くなかったのか、また別の男が健太郎の脛を蹴った。健太郎はたまらずその場に蹲る。

 男たちは声を揃えてギャハハと笑った。


 通行人は見て見ぬふりで通り過ぎていく。かつてのクラスメイトや教師の目と同じだと、健太郎は絶望的な気持ちになる。


「おいやめろよお前。ポチ泣いてんだろうがよ」


 男は蹲る健太郎の襟首を摑んで無理やり立ち上がらせ、もう一度馴れ馴れしく肩に腕を回し、雑多な路地裏へと引きずり込んだ。


「なあポチ、相談なんだけどよ、金貸してくんね? 遠乗りしてきたんだが、ガソリン切れそうで参ってたんだ。いいとこにお前がいてくれて助かった」


 持つべきものは友達だと男は笑う。肩に回した腕は僅かに首を圧迫する。呼吸に支障が出ない絶妙な力加減が、さらに健太郎の恐怖を煽った。


 金。

 金で解決するなら。

 健太郎は震えながらポケットの財布に手を伸ばす。


「そうだ。せっかくだし、写真撮影にでも行かね?」


 健太郎を蹴った男が言う。するともう一人は突如腹を抱えて笑い出した。


「お前天才だなあ! そういやポチ大学行ってんだっけ? いい撮影スポットがあるじゃんかよ!」


 健太郎は目の前が真っ白になった。

 写真撮影。

 その言葉の意味を、死にたくなるほどに知っているからだ。


「おいおい」腕を回す男が嗜めるように言う。「あんまカスみてえなこと言うなよ。立派な学生様は俺達カスとは口も利きたくねえってのにこうして付き合ってくれてんだぜ? 感謝しろ感謝」


 リーダー気取りの男はそう言いながら健太郎のポケットから勝手に財布を抜き取り、紙幣だけを抜くと乱雑に財布は路上に投げ捨てた。

 それから健太郎の耳元に口を寄せ、まるで悪魔のような声で、悪魔のような言葉を囁いた。


「なあポチ。お前、女の一人や二人の知り合いくらいいるよな? 俺たちの車まで連れてこい」


 その言葉が何を意味するか、考えるまでもない。


「来なければ、お前の記念写真を大学にバラまいてやるよ」


「……」


 それが意味することは考えるまでもない。


 それは――健太郎の消し去りたい、忘れ去りたい恥そのものだ。


 そんなものを大学にばら撒かれれば――。


 健太郎の脳裏に、映画研究会の三人の顔が浮かんだ。

 同じ大学に来ないかと誘ってくれた総司。

 密かに思いを寄せる香子。

 大学で最初にできた友人の道隆。


「――だめだ」


「あ?」


 自分一人の恥で済むならまだいい。

 だが、映画研究会で作った映画はどうなる?

 あの写真をばら撒かれたりすれば、その被写体が出演している映画にはマイナスにしかならない。


 総司がどれほどあの映画に心血を注いでいるか。

 香子も懸命に演技の稽古をしていたことを知っている。

 道隆も無理やり引っ張られた研究会だと言うのに、真面目に協力してくれた。

 健太郎にとって、誰かと協力して何かを成し遂げるという行為そのものが、代え難い宝だった。


 ――それをこんなゴミみたいな連中のために……。


 心臓が凍ったように、全身の血が冷え固まっていく。


「そんなことは……許せない……」


 スーパーのレジ袋ががさりと落ちる。

 男は笑みを消した。


「なんだあ? 反抗期かポチー?」健太郎の首を絞める腕の力が強くなる。「もう一回同じこと言ってみるかー?」


 太い腕が少しずつ健太郎の首に食い込んでいき、顔が赤く染まっていく。視界にチカチカと黄金の星が舞う。


 健太郎は思う。


 ――どうしてこんなクズ共に、何の個性もないチンピラなんかに、いつまでも搾取されなくてはならないんだ。


 健太郎は己の首を絞める腕を握った。

 男はそれをチラと見る。


「おーいポチ君よー。この手は何のつもりなのかなー?」


 健太郎は答えない。

 男の目に不快の色が走り、額に青筋を浮かべ、健太郎の足を踏みつけた。健太郎の顔が苦痛に歪む。しかしもう健太郎は口を開かなかった。それが面白くなかったらしく、男は他の二人に目配せする。

 二人は下賎な笑みを顔に張り付け、一人はスマートフォンのカメラを向け、もう一人は拳を鳴らす。


 健太郎は大きく瞬き、拳を振り上げる男を見た。


「あ? お前カラコンなんかつけ――」


 続く言葉は、強烈な冷気によって遮断された。

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