第16話 罪と罰

 歩道に人の姿はなく、道路を走る車もまばらである。遠くのコンビニの明かりが道路を横断しているのが見え、酷く空腹であることに気が付く。


 道路沿いにあったスーパーも、ファミレスも、ガソリンスタンドも、それ以外のあらゆる店はとっくに明かりを消して静まり返っていた。


 空には月が昇り、満天の――とはいかないが、そこそこの星空が浮かんでいる。

 日中に焼かれたアスファルトがまだ熱を帯びているのか、すでに深夜だというのにまだ蒸し暑い。


 街路樹に止まった虫が鳴いている。それ以外には自分の呼気しか聞こえなかった。


 道隆がに立ってから、ひたすらに、ただ1点のみを見つめている。端から見れば不審者そのものだが、そんなことなど気にも留めず、道隆は地面に縫い付けられたようにその場を動かない。


 道隆は今いるのは、白亜のマンションの前だ。

 考えてみれば簡単なことである。マンションの場所は覚えてはいなかったものの、マップアプリの履歴情報を見れば分かるはずということに気付き、こうして辿り着くことができた。それから、道隆はずっと白亜が現れるのを待っている。


 待つのは苦ではなかった。だが、自分が彼女にしたことを思い出すと、どんな顔で会えばいいのか分からなくなる。そんな状態ではあったものの、それでも道隆は覚悟を決めてここに来た、つもりであった。


「――どうして」


 消え入るような声がした。

 声は、マンションの方からではない。

 道隆の、真横から聞こえた。


「……白亜ちゃん」


 白亜は、道隆から2メートルほど離れた距離の歩道に立っていた。肩には前に見たのと同じトートバッグをかけており、変わらず不細工なプテラノドンが下がっている。


「ずいぶんと遅い帰りだね」


「……あなたとは、関わりのないことです」


「15時間も待った」


「そうですか。よく通報されませんでしたね」


「自分でもそう思う」


 おどけてそう言ってみせたが、白亜はニコリともしない。

 遠くのコンビニの方から若者たちが騒ぐ声が聞こえる。大学生だろうか。


「もう一度、話を聞きに来た」


 白亜の表情が曇り、トートバッグの紐を握る手が強くなるのが見て取れた。

 しかし、そう思った次の瞬間には白亜はすでに何の感情もない顔に戻っていた。


「これ以上、お話することはありません。お引き取りください」


「そうはいかない。僕は、これでも色々と腹をくくって来たつもりなんだ。簡単には引き下がれない」


「迷惑です。お引取りを」


「迷惑だと言うのなら、勝手な都合で巻き込まれたこっちの方が迷惑だ」


 逃がすものかと、あえて強い口調で心にも無いことを道隆は口にする。白亜の目尻がピクリと反応した。道隆は畳み掛けるように続けた。


「君が僕を巻き込んだりしなければ、僕はこんな悩みを抱くこともなかった。その原因を作ったのは君だ。君には僕に対して、全てを説明する責任がある」


「そんな責任なんて」


「ないなんて言わせない。だって僕は君のせいで、確実に一回死んでいる。そうだろう?」


「――あなたは生きています」


「君が助けたからか?」


 白亜の表情は崩れない。だが、その顔にどこか影がさしたように感じられた。

 道隆は一本、白亜と距離を詰める。


「君だってもう、君の話の矛盾に気づいてるだろ?」


「……」


 車が一台通り過ぎる。そのヘッドライトに照らされた彼女の姿が、とても小さく見える。

 白亜は道隆から視線を外すと早足で歩き出し、道隆を無視してエントランスへと進んだ。


「説明できない事情があるなら、いい」


 スイングドアに手をかけたところで、白亜は動きを止める。


「その代わり、一つだけ教えてくれないか」


 白亜は答えない。顔を下に向け、何かに必死に耐えるよう、唇を噛む。


「白亜ちゃん。君は……」


 道隆は空気を飲み込む。

 喉の奥が痙攣している。

 これまでの色んなことが走馬灯のように脳裏を過ぎ去り、言葉の邪魔をする。それらを強引に飲み下して。道隆は絞り出した。


「君は、僕を恨んでいるのか?」


「――ぇ?」


 蚊の鳴くような声と同時に、ドアの取っ手から白亜の手が滑り落ちる。振り返り、弛緩した表情で道隆を見た。

 道隆は続ける。


「君は、誰もあいつの――地球乃の事件を疑問に思わないことに怒っていたよな。当然だと、そう思うよ」


 道隆は思い出す。

 地球乃と白亜は、とても仲の良い兄妹だった。顔を合わせれば憎まれ口を叩き合うような二人だったが、それは親愛の裏返しであることくらい、端から見ていれば明らかだった。そんな二人のことを、道隆は――。


「あ、やせ……さん……」


「僕は、兄を無実の罪に陥れ、のうのうと生きている極悪人。そう見られてもおかしくはない」道隆はかぶりを振る。「本当は僕に、君を糾弾する資格なんかないんだ」


「それは……違――」 


 白亜は何かを言おうと口をパクパクさせるが、しかし声は言葉を結ばない。

 道隆は最後だと思い、爪が食い込むほどに拳を握りながら、もう一度同じように尋ねた。


「君は、僕を恨んでいるんじゃないのか?」


「綾瀬さん――」


 白亜は道隆に向かって手を伸ばし、足を踏み出した。まさにそのときだった。


「は。存外に物分りがいいじゃねえか、間抜け面」


 その、正体不明の声が低く響いたのは。

 道隆はぎょっとして辺りを見回すが、道隆と白亜以外の人影はない。白亜もその声に動揺したのか目を丸くする。

 二人のそんな反応を嘲笑うように、声は尚も当然のように続ける。


「そう、お前は奥村地球乃を、こいつの兄貴を抹殺した一員だ。恨まれて当然だよな。奥村白亜、そこの間抜けを――殺してやりたいだろ?」


 白亜は、上げかけていた手を下ろし、ゆっくりと瞼を落とした。まるで、何かを諦めたかのように。


「白亜ちゃん。この声は……」


「問答は無用だぜ、奥村白亜。もう、先延ばしはなしだ」


 粗雑で、臓腑の芯まで冷えるような冷徹な声だ。声は、白亜の方から聞こえてくる。いや、微妙に位置がズレているような気もする。いずれにせよ、白亜の声とはほど遠い、低い男の声だ。


「真実を知りたいんだろう?」


 白亜の肩から、ズルズルとトートバッグが落ちる。


「仇を討ちたいんだろう?」


 耳に絡みつくようなその声に、胸が悪くなる。


「その男を、救いたいんじゃなかったのか?」


 意味が分からない言葉を、声は尚も吐く。


「示せ」


 その言葉が最後の引き金だったように、白亜は目を開く。その目にはどこか、寒々しい雪原を思わせる冷たさが差す。それを隠すように、白亜はガクリと俯いた。そして、すうと右手を水平に上げる。


「はく――」


 再度、道隆を衝撃が襲う。

 鼓動がドクンと跳ねる。

 白亜のその右手に、突如として銀色の刃物が現れる。


 全身が硬直し、その一点から目が離せなくなる。


 かつてクラスメイトを切り裂き、刺し貫き、血と内臓をぶちまけた、杭のような銀の凶器。それが白亜の手の中にあり、そしてあの時と同じように――


 ――道隆に向けられた。


「綾瀬さん」


 顔を上げ、冷徹な瞳で道隆を見据え、月光に反射する杭を手に、白亜は、ただ静かに宣告する。


「あなたを殺します」

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