第12話 一人の部屋の、二つの声

 日はすでに暮れかかっている。

 カーテンの隙間から差し込む一筋の光が、切り裂くように薄暗い部屋の中を二分している。その光に、乾いた血の染みが照らされていた。


 部屋の隅で、白亜は顔を膝に埋めて座っている。まるで部屋の影に自分自身を溶かしてしまおうとするかのように身を小さくして、肩を震わせていた。

 あまりにも脆弱な、ひび割れたガラス細工のような危うさが、その姿に浮き彫りになっていた。


「愚かだな、お前は。いつまでそうしているつもりだ」


 突然、白亜以外には誰もいないはずの部屋に声がこだました。


「そんな風に罪悪感抱いて泣くくらいなら、最初から何もしなくて良かったんだ。そんなにあいつのことが大事か?」


 声は実に楽しそうに、嘲るように笑う。


「いやまったく、あれがハムみたくぶった切られたのは笑えたぜ。もう少しで声に出しちまうところだったよ。お前はなんだ、ションベンくせえガキみたいに泣いてたっけか?」


「……うるさい。けしかけたのは、そっちのくせに……」


「人聞きの悪いこと言うなよ。俺は可能性と手段を提示しただけで、やると決めたのはお前自身だ。何もしなくていいとも、俺は言ったはずだぜ?」


 白亜は黙る。事実だからだ。

 声はさらに、何かが擦れるような声で続けた。


「だいたい嘘が下手すぎるんだよお前は。もっとマシな嘘くらい用意しておけよ」


「黙って」白亜は少しも顔を上げず、くぐもった声を絞り出す。「私のことなんて、何も知らないくせに、好き勝手言わないで」


「そりゃあ分からねえよ。何せ俺は人間じゃねえもの」


 だからお前にも同情はしないのさと、声はせせら笑う。


「嘘が苦手なら、全部本当のことを教えてやればよかったじゃねえか。そしたら全部簡単に片がついた」


「そんなこと、できるわけ……」白亜はさらに強く膝を抱き締めて小さくなる。「そんな、酷すぎること……」


「酷すぎるったって、時間の問題だってことは分かってるだろ。遅いか早いかの違いでしかないなら、早い方がいいに決まっている」


 白亜は道隆に捕まれた腕と同じ場所を握りしめる。


「あの人が、どう思うと……」


「あの人がどう思う? は。くだらねえ言い訳はよせよ。てめえの覚悟が足りてねえだけのこったろ」どこまでも冷酷に、ざらつく声で言う。「お前の仕事は簡単だ。ただあいつにこう言ってやればいい。『お前はいずれき――』」


「うるさい!」


 白亜は絶叫し、うううと嗚咽を漏らした。

 白亜は知っていた。仮にそれを言ってしまえば、もう後戻りはできず、白亜にとっても道隆にとっても、最悪の決断を迫られるということを。

 声はどこまでも淡白に「人選ミスだなこりゃ」と嘆息する。


「奥村白亜。お前は弱すぎる。兄貴の真実を知りたい。兄貴の仇を討ちたい。志は立派だが、そう決めたのなら捨てるべきものは捨てろ。あいつに惚れてるか何か知らんが、その感情とお前の目的は同居できやしない。そんな邪魔なものを抱えたままじゃ……死ぬぞ」


「彼の……綾瀬さんのことは……今はまだ放っておける。これ以上、巻き込むことの方が、危ない。だから、怒らせて、もう私とも……金目とも、関わらないようにしたかったの。それの……何がいけないの……?」


 白亜は必死になって自分を押し殺し、冷酷な自分を演じて、あえて道隆の怒りを煽るような言葉を選んだ。そのことに後悔はない。

 けれど、心が痛くてたまらなかった。

 それは常に、最悪の未来が頭の中にあるからだ。


「そのやり方が下手だって言ってんだ間抜けが」声は尚も、真に冷酷な声で白亜の心を抉る。「何だよ、回復魔法で治しましたって。あいつのデコにでけえ傷が残ってるのが見えなかったのか? お前は頭打って気絶しただけで、切られてなんかいない勘違いだと押し切れば良かったんだ」


 それだけじゃないと、声は断罪するように続ける。


「そもそも、どうしてあいつをこの部屋に運んで介抱なんぞした? あいつが敵じゃないかと疑ってる奴の行動じゃねえだろ。お前の言動は終始破綻してるんだよ」


 白亜は息を呑む。その行為を、確かに愚かだったと認めるように。


「……だって、綾瀬さんは……私を……」


「助けてくれた……ってか?」


 声は吐き捨てるように言う。


「綾瀬さんは、金目に本当に驚いていた。あれは、演技なんかじゃない。本当に、何も知らないはずよ。それに、敵なら、私を助けてくれたりなんかしない。綾瀬さんは……敵なんかじゃない……」


「……そりゃそうだ」


 声は、初めて白亜に同意を示す。


「その点についてはそうだろうぜ。あいつは単なるアホで間抜けなお人好しで、には金目とは何の関わりもない。だったらな」 


 尚更ご丁寧に説明してやる義理なんざねえだろうがと、声は断じてしまった。


「破綻してると言ってるだろ。あいつはお前の兄貴の事件とは関わりがないと分かった時点で次の段階に進むべきだった。余計な同情なんぞ沸く前にな」


 白亜はさらに深く顔を埋め、首を振る。まるで、聞きたくないと言うかのように。


「わざと怒らせて関わらないようにした? は」声は侮蔑の笑いを短く漏らす。「あいつは間抜けだが、どうやら馬鹿ではない。こんな矛盾なんざすぐに見破ってお前の前にまた現れるぞ。そうなったとき、お前のそのメチャクチャな心理状態で、どこまで先延ばしにできる?」


 白亜は僅かに顔を上げ、床の上のトートバッグのプテラノドンに視線を這わせる。そのすぐ横に血の跡があるのを見つけ、白亜はまた顔を膝に埋めた。


 覚悟を示せ――声は言った。


「お前は決断できるのか?」


「――やめて」


「あの男。綾瀬道隆を――」


「やめて!」


 ――殺すことができるのか。


 白亜は何も答えない。


 声は最後に鼻を鳴らす。


「できないなら尻尾巻いて逃げ出せよ、小娘が」


 声は、それきり聞こえなくなった。


 窓の外から微かに聞こえる遠く地上の喧騒だけが、暮れゆく部屋の中に残された。

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