第11話 日常会話

 頭の傷は、出血こそ派手だったが傷自体は対したものではなかった。出血もほぼ治まっており、傷口で固まりかけている。


 頭から水を被ると、思考と視界がはっきりしてくる。

 ようやく、冷静に白亜の言葉を受け止め、考えることができそうな気がした。


 部室中に散らばっていたシャツはどれも汚れが酷く、カビらしきものが繁殖しているものさえあった。およそ人が身につけていい代物ではない。

 結局道隆は自分が着ていたシャツを水道で洗い、簡単に水を払い落としただけでそのまま身に付けた。夏の日差しの中を歩けばすぐに乾くだろうと踏んでのことだった。


「おや、水も滴る良い男だ」


 道隆は水浸しの髪を掻き上げながら声の方に目を向ける。長い髪をボサボサにした化粧っ気のまったくない女性である。黒縁の大きな眼鏡をかけており、その奥の目は酷く眠そうで半開きになっている。どこぞの高校の名前が刺繍された青いジャージを着ていた。

 映画研究会に所属する三回生の猪口香子イノクチキョウコである。


「ああ、猪口さん。こんにちは」


「誰がイノシシだ。香子さんと呼べと言ってるでしょ」


 香子は迫力のない声で不満そうに口を尖らせ、そして大きく欠伸をした。


「で、どうして水浸しになってるのかな? トイレ入ってたら水ぶちまけられた?」


「何世紀前のいじめですか」


「冗談よ。大学に血塗れのやべえ男がいるってSNSに写真出回ってた。どう見ても知ってる顔なんで全私が爆笑。そのオデコの怪我のせい?」


「ええ、まあ。ちょっと転んだんです」


 道隆は頭を抱え、しばらくSNSは開かないようにしようと決心した。


「絆創膏いる? 持ってないけど」


「じゃあ何で聞くんだよ」


 いいツッコミだと香子は楽しそうに笑った。そしてもう一度大きく欠伸をした。香子はいつもやたらと眠そうで、部室でもよく寝ている。それどころか、部室に寝泊まりしているような気配すらある。


「会長はどうしてる?」


「部室にこもりきりですよ。映像の編集をしているみたいです」


「やっぱり。ちょっとは外に出ろって言ってるんだけど聞いちゃくれないわ。とはいえ、私も完成楽しみなんだけど」


「超大作でしたからねえ」


 映画研究会は二ヶ月前に一時間程度の映画を一本撮影した。ジャンルはミステリで主演は香子、犯人役が健太郎で道隆は脇役だった。監督も脚本も総司である。

 素人が書いたとは思えないほど脚本も演出も凝っており、道隆たち部員は馬車馬のように働かされた。

 足りない人員は総司と香子と健太郎の人脈によって集め、僅か四名の研究会とは思えないほどのクオリティに仕上がっている。ちなみに、道隆は雑用以外何の役にも立っていなかった。演技も大根で寄せ集めの部外者の方がマシという始末である。完成版は道隆も観てみたかったが見たくなかった。


 その時、映画研究会の部室のドアが開き、健太郎が出てきた。こちらに気が付くと、「香子さんちーす」と実に軽く手を上げた。

 こちらにやってくると、相も変わらぬ小動物のような目で笑った。


「やー、香子さんは今日も変わらずクソダサジャージとボサボサ頭が最高に似合ってて素敵っスね!」


「ありがとう、君は最高の後輩だよケン」


「何でお礼言っちゃうんですか……」


「にしても、何で道隆先輩は水浸しなんスか? 俺があげた謎アルファベットTシャツは?」


「謎アルファベットの前に謎の菌が繁殖してるシャツなんぞ着れるか」


 やだな人聞きの悪いと健太郎は軽薄に笑った。


「おっといけねえ。そろそろ試験の時間なんで、俺は退散するッス。道隆先輩も同じ講義でしょ? 急いで乾かした方がいいっスよ」


「あ、もうそんな時間か。洗うのに手間取りすぎたな」そう独り言ち、大事なことを思い出して健太郎に言った。「悪い。シャーペンと消しゴムが余ってたら貸してくれ。バッグどこかに忘れてきたみたいなんだ」


「いっスよ」


 そう言うが早いか、健太郎はバッグの中から筆箱を取り出し、その中からシャーペンを一本だけ取り出すと、筆箱の方を道隆に投げてよこした。

 道隆は困惑し、何度か筆箱と健太郎の間を視線を往復させた。


「逆では?」


「あーいいんスいいんス。消しゴム一個しかないし、そのまま持ってってくだせえ」


「いや、それだとお前が」


「今の俺ならシャーペン一本で充分なんスよ! 向かうところ敵なし!」


 快哉を叫ぶかのような調子でそう言うと、スキップ混じりに健太郎は走り去って行った。

 流石に香子も首を傾げ、どこか心配そうに道隆に尋ねる。


「頭打ったのかな?」


「それは僕ですね」


「じゃあ悪いものでも食べた?」


「僕は現実逃避だと踏んでいます」


 おいたわしやおいたわしやと念仏のように繰り返し、去って行った健太郎の方を向いて両手を合わせる。

 道隆は健太郎に借りた筆箱に目を向ける。黒い布にチャックがついているだけのシンプルなものである。長いこと使い込んでいるのかところどころ破れかけている箇所があった。壊れる前に返そうと思った。


「それじゃあ、僕も行きます」


「おー。頑張りってきたまえ若人よ。私はまた部室で寝てるわー」


 香子はもう一度欠伸をし、尻を掻きながら部室へ入っていった。服装といい髪型といい、まるで実家である。よくもあんな劣悪な環境で寝れるものだと道隆は恐れ入る。


 道隆は最後にもう一度、水道で顔を洗った。


「――大丈夫」


 普通に会話ができている。何も心配はいらない。

 誰に言うでもなく呟き、道隆も試験が行われる教室へ向かって歩き出した。

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