第一章
第6話 ある春の日の思い出
薄く開いた窓から涼やかな風が吹き込み白いカーテンを揺らす。
遠くの歩道に沿って植えられた桜が花びらを舞わせ、歩道を薄ピンクに染めているのが見えた。
ようやく高校生かと、道隆は感慨深く溜息をついた。
「奥村……どう読むんだこれ? ちきゅう? あー……ちきゅうの? 最近の名前は本当に読めねえな。ルビ振っとけよルビ」
教壇上の若い教師が文句を垂れる。それに反応し、一人の生徒がおずおずと申し訳なさそうに手を上げた。
「先生。それ多分俺だと思います」
「多分とは何だ。自分の名前に自信がないのか」
「いや名前呼んでないじゃないすか」男子生徒は愚痴るようにそう呟き、はあと溜息を溢した。「それ、てぃらのってよむんです。地球でテラ。奥村てぃらの」
教師は首を傾げ、手元の出席簿と男子生徒とを交互に見て、多分、悪気なく笑った。
「いや、なんだ。すまんすまん」教師は軽薄な調子で言う。「しかしまあ、出鱈目な名前だなおい」
「先生、デリカシーって言葉知ってます?」
「知らん」
男子生徒――奥村地球乃は不満げに口を尖らせる。しかし本人もどこか楽しそうだった。
地球乃は仰々しく両手を広げる。
「はじめましてだクラスメイトの諸君! 俺のことはどうぞほしのと呼んでくれ! どこぞのクソ親父がつけたイカれた名前で呼んだらしばき倒すからそのつもりで一つよろしく頼む!」
「分かったから座れ」
「はい」
地球乃は素直にすとんと着席した。声と態度のでかい男だと、地球乃の前の席に座る道隆は思わず吹き出してしまった。
「あ、笑った。笑ったなこの野郎」
地球乃は馴れ馴れしく道隆の肩を叩いた。
道隆はごめんごめんと振り返る。
「入学初日から濃いのがいるなあと思ってさ」
「まあ無理もない。こんなアホみたいな名前の奴がいたら俺でもそう思う」
うんうんと納得しているがそういう意味ではなかった。
「お前名前は?」
いきなりお前呼ばわりである。
「君の前に自己紹介したじゃないか」
「馬鹿だな。たった一回聞いただけで覚えられるかよ。お前だって俺の名前なんか覚えてねえだろ?」
「逆に何で覚えてないと思うんだよてぃらのくん」
「てぃらのじゃねえよ喧嘩だこの野郎!」
「おいそこうるせえぞティラノサウルス!」
「サウルスとかつけんなや!」
注意する教師に噛みつく地球乃。道隆は不覚にもまた笑ってしまった。
地球乃は反省したのか、机に顎を乗せて、憎々しげに声を潜める。
「怒られたじゃねえか」
「今のは君の自爆だろ」
「俺のことはほしのと呼べ。二度とふざけた名前で呼ぶな」
「分かった分かった」
地球乃は鼻を鳴らす。
「それで、結局お前は誰なんだよ」
本当に微塵も覚えていないらしい。実際、今も続いている級友の自己紹介を完全に無視している辺り、真実覚える気がないのだろう。
「綾瀬道隆だよ」
「何だ。もったいぶった割に普通の名前だな。もっとすげーのが来るかと思ったぜ」
「どんなすげーのがきても君には負けるよてぃらの君」
「畜生め。お前なんか大嫌いだ!」
道隆はその反応がおかしくてケラケラ笑った。
初対面だとは思えないほど自然に軽口が口をつく。そんな人間に、道隆は今まで出会ったことがなかった。
不思議だった。
ふざけた態度とは裏腹に、地球乃は整った顔立ちをしている。男子にしては髪は長く、耳にも届く前髪を横に流している。眉は太く、目は鋭い。まるで猛禽のようだ。体つきはがっしりしており、一見するとスボーツ経験者のように見えた。
威圧感のある風貌だが、しかし顔には常に人の良さそうな笑みが浮かべているせいか、逆に優男のようにさえ見える。
「あ、そうだ」
ついさっきの怒りの形相をパッと消し、地球乃は机の上を這うようにさらに道隆に顔を近づけた。
「せっかく知り合いになれたんだ。ぜひとも聞きたいことがある。誠実に答えてくれ、たかみちくん」
「道隆な」
道隆の指摘など機にした様子もなく、地球乃はニヤリと笑う。しかしすぐに表情を引き締め、まるで国家機密でも漏らすかのように厳かな口調でこう尋ねた。
「お前は、スカートについてどう思う?」
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