第5話 邪悪な猿

 ほんの僅か、コンマ一秒でも白亜が道隆をテーブルの下に引き摺り込むのが遅れていれば、道隆はガラスの破片でズタズタにされていた。


「――は」


 今まさに、掛け値無しに死にかけたという事実に、呼吸すらも危ういほどの混乱に陥った。思考をも手放しかけたが、それが致命的であることを本能が理解し、全神経で踏み止まる。


 だが、思考しようとしまいと、目の前の現実を理解することは不可能であることに変わりなかった。


 道隆は同じようにテーブルの下で身を隠す白亜に目を向ける。彼女も緊張した面持ちだが、しかし道隆と違って狼狽する様子はない。


「白亜ちゃん――これは――」


「一旦、話は後にしましょう」白亜はトートバッグを肩にかけ、もう一方の手で道隆の手を取った。「移動します。走りますよ」


 言うが早いか、白亜は素早くテーブルの下から飛び出した。

 道隆はなされるがまま白亜に引きずられ、混沌と化したフリースペースを出る。


 背後から、何者かが追ってくる気配があった。

 振り返る勇気は道隆にはなく、白亜に引かれるまま走り続けるしかなかった。


 不気味なことに、ここまで学生の姿一つ見えなかった。


 講堂を出て、足を緩めることなく大学の敷地外へ。大学に隣接する片側二車線の国道の真ん中へと躍り出たところで、白亜はようやく道隆の手を離した。


「は、白亜ちゃん。一体何が――」


 起こっているんだ、という言葉は突如として道隆の喉の奥で消えてしまった。

 見てしまったからだ。


 窓の外に見えた、黄金の双眸。

 体躯は大型の肉食獣――ライオンに近い。全身が針のように鋭い真っ黒な体毛で覆われており、ブレード状の二尾がそれ単体の生物のように宙を這っている。全長は、少なく見積もっても五メートルは下らない。


 それだけでも異質なのだが、特筆すべきはその頭部である。そのあまりの気味の悪さに、道隆は血の気が失せた。


「――知性を得た邪悪な猿のようだ」


 ポツリと、無意識に独りごちる。


 白亜は表情を引き締め、現実に存在するはずのない怪物を見据えた。

 怪物は、まるで人間のように口角を上げてニタニタした笑みを浮かべ、本物の肉食獣のように二人の周りを歩き出した。


 食われる。

 道隆は訳もわからぬまま、その未来だけを確信し、絶望的な気分で硬直した。まさに、蛇に睨まれたカエルである。


「大丈夫。安心してください」しかし白亜は、やや緊張した声音ではあっても毅然とした声で言う。「あれは私に任せて、綾瀬さんはそこを動かないで」


「ま、任せるって、何をするつもりなんだ」


 呂律の回らないその問いに、白亜は答えなかった。

 一度プテラノドンをギュッと握りしめ、トートバッグを地面に落とす。

 白亜の手には何もない。完全な丸腰である。道隆が知る限り、白亜には何の武道の心得もない。いや、あったとしても、あんな巨大な化け物に意味などない。重火器でもなければ対処不能だ。


 白亜は任せろと言った。だが、任せられるものか。


 化け物が動きを止める。

 完全にこちらに狙いを定めたようだ。


「――」


 化け物の笑みが濃くなる。

 馳走にありつけるのが嬉しくてたまらないという笑みだ。

 恐怖を超え、もはや生理的嫌悪を覚える。

 髪の毛先に至るまで、絶対に相容れないと絶叫する。


 化け物は音もなく地面を蹴った。


 白亜は半円を描くように左足を引き、居合抜きのように右手を背中に回す。


 化け物は頬を裂いて大口を開き、削岩機のような牙が視野を覆った。


 白亜は、右手を払う。


 飛沫が上がった。


 跳躍した化け物は、獲物を仕留めること叶わず口から横一線に両断され、地面に落ちた。


 道隆は目を見開き、尻餅をつく。

 しかしそれは、両断された化け物に対する驚愕のためではなかった。


「どう……して……」


 トートバッグを落とした彼女は丸腰だった――はずだった。しかし、払われた彼女の右手には、絶対にそこにあるはずがない、武器の姿があった。


 杭のような、棒状の銀色の刃物。


 ――あの殺人鬼が使った凶器と同じ。


 背筋が凍りつく。

 どうして彼女が、それを持っているんだ。


「白亜ちゃん、それ」 


 白亜は全身が弛緩したようにその場に崩れ落ちる。地面に両手をつき、ぜえぜえと洗い呼吸を繰り返し、滝のような汗があっという間に地面に無数の染みを作った。


「はく――!」


 再度、道隆は言葉を失い、恐怖で体が凍りついた。

 地面に転がった化け物の死体。その二本の尾がゆるゆると宙を這うのを認めたからだ。


 白亜はそれに気が付かない。それどころか、今にも失神しかねないほどの極限状態だ。

 叫ぼうにも、道隆の喉は痙攣するばかりで満足に言葉も紡ぐことができない。


「――」


 数秒先の、最悪の未来を想像する。

 かつて見た、クラスメイトの惨たらしい末路を思い出す。


 宙を這う二尾には、紛れもなく意思がある。白亜に対する、明確な殺意がある。このままでは、確実に白亜は、惨殺される。


 それが分かっているのに、道隆の体はまるで動かない。


 ――ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!


 何が起きているのかは一つも理解できない。白亜が何者で、この化け物は、何なのか、分からないことだらけだが、このまま白亜を見殺しにしていいわけがない。


 ――ここで動かないで、何のために生き残ったんだ!


 無惨に転がる級友たち。

 あんな光景を目の前で見るのは、二度とごめんだ。


 二尾は平行に大きくしなる。


 赤に染まった殺人鬼の顔が、それと重なった。


「――くそったれがああああああっ!」


 道隆はあらん限りの力で地面に頭を振り落とした。たちまち額が割れ血が噴き出した。その痛みで、全身を麻痺させる恐怖を無理やり打ち消し、咆哮しながら立ち上がる。


「逃げろ白亜!」


 声に白亜が気付く。しかし、もう手遅れだ。二尾は白亜へ向かって空気を切り裂きその体躯を一閃する。白亜の細い体は容易く両断さ――


「――せて、たまるかあああああ!」


 道隆は白亜の裾を乱暴に掴み、勢い任せに後ろに引いた。地面に伏していた白亜の体は地面を転がる。そして――


 ――二本の尾は、道隆の腹を輪切りにした。

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