第7話 白亜の部屋

「て――の――」


 目を開くと白い光が目に染みた。

 目が眩んだせいか、涙が流れている。


 目を開く前に何か言葉を口にした気がしたが、自分でも何と言ったのか分からなかった。

 悪夢を見た気がした。

 否、良い夢だったような気もする。

 道隆はぼんやりと天井のシーリングライトを見つめた。


 ――いや待て。ここはどこだ。


 道隆の借りているアパートは築50年を余裕で超すボロである。天井には電球剥き出しの照明がぶら下がっているのみだ。

 それに、今寝転がっている布団は何だ。いつもの煎餅布団とは比べ物にならない柔らかさである。しかも何だか甘いいい匂いがする。ずっと嗅いでいたい。寝ぼけ眼で布団に顔を押しつけ――


「気づかれましたか?」


「ぎゃああああ!」


 道隆は悲鳴を上げて布団から、否、ベッドから転がり落ちた。全身をしこたま打ち付け、ううと唸る。

 体を起こすと、部屋の片隅で壁に背中を預けて白亜が座っていた。

 道隆は白亜の姿を見ると同時に目を泳がせた。


「あ、いや、まってくれ、違うんです。僕は変態じゃないんです……」


 白亜ははてと首を傾げる。


「何の話ですか?」


「……ナンデモアリマセン」


 白亜は今まで読んでいたらしい文庫本を床に置き、「何か飲まれますか」と尋ねた。道隆は酷く喉が渇いていることに気が付き、頷いた。

 白亜が部屋から出ていくと、道隆は改めて――ほんの少しだけ遠慮がちに――部屋の中を見回した。


 広さは六帖程度の洋室。ベッドの他には小さな折りたたみ式のテーブルと本棚がある程度で、生活感が希薄でどこか空々しい。掃出窓のカーテンから外を覗くと地面が遥か下に見えた。十階くらいかなと、道隆は適当に試算した。マンション前の道路沿いにはスーパーやコンビニだけでなく、ファミレスやガソリンスタンドの看板も見えた。申し分ない立地である。


 不意に、頭がずきりと痛んだ。

 額に触れると指先にざらつく感触があった。どうやら包帯を巻かれているらしい。

 ふと、疑問に思った。

 なぜ、自分はここで寝ていたのだろう?


 その当然の疑問に行き着くと同時に、道隆は自分の身に起こったことを完全に思い出して青ざめた。服を剥ぎ取らんばかりの勢いでシャツをめくりあげ、腹を弄った。

 そこには、しかし何の異変も見当たらなかった。普通の人間の腹部があるだけである。化け物に切断された生々しい記憶が確かにあるのに。


「まさか……夢……?」


 ――そうだ。夢に決まっている。現実にあんな化け物がいるものか。夢でなければ自分が生きているはずがない。


「そうか。そうだよな。夢だよ夢。あー夢でよかったー」


「夢ではありませんよ」


 そんな現実逃避は、冷徹な白亜の声で切り捨てられてしまった。白亜はどうぞと麦茶が注がれたコップを道隆に差し出す。道隆はそれを受け取ると一気に飲み干した。


「夢、じゃないのか?」


 道隆は縋るように尋ねるが、白亜は違いますとかぶりを振った。


「頭の怪我が何よりの証拠では?」


 そう言いながら、白亜は自分のコップをテーブルに置いて腰を下ろす。道隆はもう一度額の包帯に触れた。


「それなら、どうして僕は……死んでないんだ。頭の怪我どころか、確かにあのとき」


 化け物の尾に体を三分割にされたはず。その言葉は、喉の奥で吐き気に変換された。何度目の吐き気か。胃がズタズタになっている気がした。

 少しでも気を緩めると腹の中身を全てぶちまけてしまいそうだった。体が生き別れになる瞬間の生々しい感触が、未だに腹に残っている。


「教えてくれ白亜ちゃん。あの後、何があったんだ?」


 白亜は答えなかった。余程のことがあったのか、道隆を見る目にはどこか恐れのようなものが滲み、答えていいものか悩んでいるように見える。

 だが、そんなものに遠慮していられる余裕は今の道隆にはない。


「いやそれだけじゃない。他にも君には聞きたいことが山ほどあるんだ。あの化け物は何なんだ? どうしてあんなのと戦える? 君が持っていたあの武器は――」


「待ってください待ってください。一度にそんなに答えられませんよ」白亜は慌てた様子で顔の前で両手を振る。「一度落ち着いてください。そうだ、お茶のおかわりはいかがです?」


 言葉に甘えて、もう一杯お茶を貰った。

 冷たい水分が体を通り抜ける感触が心地よく、気持ちに余裕が出てきた。道隆は額に手を当てて吐息する。


「ごめん。だいぶ参ってるみたいだ」


「無理もありません。謝らないでください。それに、むしろ謝るべきは私の方なんですから」


 道隆は怪訝に思って目を細める。


「どうして君が謝るんだ?」


「油断したんです。やっつけたと思い込んでしまって、まだ生きていたなんて思いもしなくって。ちゃんと倒せていたら」


 白亜はふと言葉を切り、道隆に向かって深く頭を下げた。


「助けてくださり、本当にありがとうございました」


「そんなことは……」


 沈黙。気まずくなり、この重苦しい空気を何とかしようと道隆は適当に話題を振る。


「ここ、白亜ちゃんの部屋?」


「え?」


 顔を上げ、突然話題が変わったことに困惑した様子で白亜は答えた。


「はい。そうですが」


「結構いいとこに住んでるんだな。僕のアパートとは雲泥だ」


「いいとこって、普通の学生向けマンションですよ、ここ」


「普通? これで? 虫どころかカビ一つ見当たらないのに?」


「綾瀬さん、一体どんなところに住んでいるのですか?」


「四畳半和室。トイレは共用で風呂はバランス釜。隣の人の声どころかトイレの音まで聞こえる」


 白亜は一瞬、嫌そうに眉をひそめた。


「それは何と言いますか……趣きのある部屋ですね」


「無理して褒めなくていいよ。二年も予備校に行かせてやったんだからこれ以上金は出さんとか言われて、節約のために仕方なく住んでるだけなんだ。何と、家賃は破格の一万円」


「あの、失礼ですが綾瀬さん、もしかして、一年生ですか? 私と……同級生?」


「……はい?」


 言われて、初めて気がついた。二年の浪人生活の末に二歳年下の子と大学で会えば同級生に決まっているのだが、歳下という固定観念が邪魔をしてその事実に思い至らなかった。顔見知りの歳下の子と同じ学年になったとはっきり言葉にされると、存外にショックなものである。


 勝手に一人で落ち込んでいると、白亜はクスリと笑った。


 その姿に道隆は思わず安堵し、胸が軽くなる。

 たったそれだけの反応が、かつての、まだ明るかった頃の彼女の片鱗を感じさせるものだったからだ。


 と、そのような脱線はここまでだと、道隆は居住まいを正す。それを察したのか、白亜も緊張で表情を強くした。


「本題に移らせてもらってもいいか、白亜ちゃん。色々と説明してほしい」


 白亜は小さく「はい」と頷き、自分のコップのお茶で口を湿らせる。そして、まるで重大な結論をするかのように大きく瞬いた。


「突拍子もない話をすることになりますが、構いませんか?」


「そんなこと分かってるよ。ことここに至って常識的な話で片付くなんて思いやしない」


 そうですかと白亜は独り言のように言った。


「私たちを襲ったあの怪物を、私は金目きんめと呼んでいます」

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