第4話 黄金の瞳
怒るべきなのかと、道隆は逡巡した。そして、怒るべきなのだろうなと、他人事のように思った。しかし、怒りはちっとも沸かなかった。
彼女の言葉は、確かに酷い。
道隆はあの事件の唯一の生き残りである。その本人が、実際に彼女の兄が殺人を犯すところを見ている。彼女の言葉は、この記憶を否定している。
「白亜ちゃん。まさか君は、僕が犯人だとでも言うつもりなのか?」
「分かりません。だから、知りたいんです」
声は平静を保っているが、テーブルの上の拳にさらに力が込められるのが見て取れた。
「あの事件は、始まりから終わりまで全部がおかしい」白亜はついさっき口にした言葉と同じことを蹴り返した。「凶器や動機のことだけではありません。中でも最も不可解なのは、終わりの部分です」
「終わり? 逮捕されたことが、という意味か?」
いいえと白亜は頭を振る。
「ニュースは見られましたか?」
「ニュース?」
「兄のニュースです」
白亜の短い言葉に視界がざらついた。立て直そうと、道隆は少し俯いて眉間を擦る。
「ああ。……執行されたみたいだな」
白亜は少しだけ表情を曇らせる。
「おかしいとは思いませんか、綾瀬さん?」
「……いや、君には気の毒だと思うけど、あれだけの事件を起こした犯人には死刑以外にない。何もおかしいとは思わない」
「それがおかしいと言っているのです!」
白亜は初めて声を荒げ、テーブルを叩いて立ち上がった。激しい音を立てて椅子が転がり、それを打ち消すように白亜は叫んだ。
「死刑が妥当だなんて分かっています! でも、事件からまだたったの二年ですよ? いくらなんでも早すぎます! どうして誰も、このことを疑問にすら思わないのですか!」
道隆は、白亜が何に憤っているのか、本気で理解できなかった。ただポカンと、立ち上がって息を切らせる彼女を見上げることしかできなかった。
「疑問に思うって、一体何を……」
「どうして分からないんですか! 兄より早く判決が下されて生きてる死刑囚が、まだたくさんいるのに!」
キンと、僅かな耳鳴りがして、道隆は顔をしかめる。
彼女の瞳から涙が溢れ、それが頬を伝ってテーブルに落ちた。
瞬間、途方もない恐怖が全身を駆け巡った。
「――そうだ」道隆は呻くように言った「そうだよ。どうして――こんな当たり前のこと――」
道隆はかじかんだように鈍い手を動かし、スマートフォンからニュースサイトを開いた。
高校生12人殺害事件 死刑囚の刑を執行
奥村地球乃死刑囚 執行
クラスメイト大量殺人犯 死刑執行
刑の執行に疑問を呈するものはなく、事務的なものばかり。あったとしても、それは死刑制度そのものに対する批判であり、事件とは無関係だ。コメント欄も「清々した」といったものばかりだ。
スマートフォンに触れる指先が白く染まる。
何だこれは。
こんなことがあり得るのか。
まさか、この世の全ての人間の意思が、何者かに操られているとでも?
激しい頭痛がした。
ドクンと、警告するように心臓が脈を打つ。
ざらつく視界にちらちらと星が舞う。
オカルトだ。馬鹿馬鹿しい。そう思うのに、ではこの違和感は何だ。どうして笑い飛ばせない。
白亜は肩で息をしながら、声も上げずに泣いている。そのとき、周りの目が自分たちに向けられていることに気が付き、道隆は慌てて白亜に座るよう促した。
「すみません。つい、カッとなってしまって」
「いいよ。君は間違っていない。君の言う通りだ」
道隆はポケットからハンカチを差し出したが、白亜はそれを断ってバッグから取り出した自分のハンカチで涙を拭う。
道隆は膝の上でハンカチをグシャリと握り締める。
「君は、いつからおかしいと思い始めたんだ?」
返答はすぐにはなかった。
短い沈黙の後、バッグに下がるプテラノドンを指で撫でながら白亜は答えた。
「最初から、おかしいとは思っていました。昨年の死刑判決での結審が早すぎたこともそうです。決定的だったのは」
昨日の報道。その言葉はなかったが、もはや言うまでもないことだ。
「それだけ?」
道隆が訪ねると、白亜はギクリとしたように体を硬直させた。
「それだけ、とは?」
「君の言うように、あいつの件は誰も疑問に思っていない。僕だって、君にいわれるまでちっともおかしいとは思わなかった。君は……君だけがこれをおかしいと分かっていたんだ。何か他に、おかしいと思えるようなきっかけがあったんじゃないか?」
まるで守るように、白亜の手がプテラノドンを包んだ。槍のような両翼が、彼女の小さな手からはみ出している。
「……鋭いですね」
「なら」
「けれど、ごめんなさい。今はまだ、お話しすることはできません。誰が敵なのか……分からないから」
敵。
彼女は確かにそう言った。
「敵って、何のことだよ?」
分かりませんと、白亜は頭を振る。
「それを確かめに来たのです」
「白亜ちゃん。君はさっきから何を言っているんだ? 意味がまったく分からない。仮に僕がその敵って奴かもと思うなら、どうして僕を呼び出したりなんかしたんだ?」
白亜は赤く充血した目を道隆に向ける。
「そうするよう、言われたからです」
「言われた? 誰に――」
不意に、足のつま先から頭の頂上まで、蛇が這い上がるような気色悪い感覚に襲われた。
いつの間にか、フリースペースから他の学生たちの姿が消えていた。
それだけではない。
かたかた鳴る古いエアコンの音も、外から聞こえていたはずの学生たちの喧騒も、完全に失せていた。
道隆と白亜以外に、音を発するものが全てなくなっている。
全身が総毛立ち、椅子を蹴り飛ばすように立ち上がる。
「綾瀬さん」
白亜は、しかし動揺する道隆とは裏腹に静かな声で言った。
「テーブルの下で伏せてください」
「――は?」
突如、窓から差し込んでいた陽の光が何かに遮られ大きな影が二人を覆った。
白亜は窓の外に目をやる。
見るなと、本能が叫ぶ。
しかしつられて、道隆もそちらへと視線をやってしまった。
ぞっとした。
巨大な、黄金に光る、一対の目。
その異形の双眸が、室内を覗き込んでいた。
その顔が醜く歪んだかと思うと同時に、全ての窓ガラスが炸裂するように砕け散った。
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