ガラスの叫び

辰巳しずく

ガラスの叫び

 朝、目覚ましのアラームは鳴っていたが、母は起きてこなかった。 

 リビングには空き缶と吐瀉物の匂いが漂っている。ふとテーブルを見れば、見知らぬ財布が置かれていた。

 きっと新しい男の財布だろう。父はもう何年も前からいない。

 私は母のかわりにアラームを止めたあとで制服に袖を通す。今日は何事もなく過ぎますように。どうかこの胸の鈍い痛みが少しでもマシでありますように。


「おはよー、万引き女」


 けれど教室に入るなり、その願いは粉々になる。

 机には空の紙パックジュースやパンの包み。それを黙って片付けていると、せせら笑う声と視線が突き刺さる。

 私は何も言わず、持ってきた本を開く。そうしなければ、余計な燃料を投下することになるから。


 だけど今日は違った。

 ページをめくる指が震えて止まらない。息をするだけで喉が焼けるように苦しい。昨夜、母に頬を殴られてからずっとこうだ。


 ふいに誰かが私のカバンをひったくり、床にぶちまける。

 くすくすと誰も彼もが笑った瞬間、何かが切れた。


 私は立ち上がり、自分の机を黒板に向かって思い切り投げる。鈍い音と悲鳴が重なり、教室の空気が一瞬で冷えるのを感じた。

 でもそれがどうしたって言うんだろう。分かってる、今の私は正気じゃない。頭の中が真っ白になって、ただ「黙れ」とか「消えろ」とかそんな雄たけびが渦巻いている。


 構わない。だってこんなにも頬や胸が痛いんだから。

 隣の机を蹴り飛ばす。続けざまに窓を力いっぱい叩いたら、割れた拍子に手のひらから血が飛び散った。


「ふざけるなあああああっ!」


 自分が叫んでいると気付いたのは、まともに立っていた最後の机を壁に激突させたあとだった。

 誰も笑っていない。動いていない。廊下からただ、私を見ている。


 どんなに私が笑われても見て見ぬふりをしてきた担任が駆け込んできて、呆然と名前を呼んだ。けれど聞こえない。鼓膜の奥でガラスの割れる音がリフレインして、誰の名前を呼んだのか分からなかった。


 ——ああ、ようやく静かになった。


 そう思ったとき、涙があふれた。私は崩れ落ち、床に血を垂らしながら泣き続けた。その間も誰も私に近づかず、声もかけない。


 その沈黙こそが、私が求めた世界だった。 


(了)

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ガラスの叫び 辰巳しずく @kaorun09

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