白湯

 ほとんど叫びに近い声を上げた本願くんは、本当に手首に刃先を押し当てて引いた。躊躇のない力によってすぐに手首から血が出る。それでも動かないお父さんを見て、今度は脚に刺す気なのかナイフを振り上げた本願くんの元へ、俺はぶつかる勢いで踏み込んだ。


「やめなさい! こんなことしちゃダメだ!」

「は、離してください……! 父にわからせるんです、本気だって……! 僕にも、意思があるんだって……!」


 本願くんは目に涙をためていた。俺が掴んだ腕は細かく震えていた。どうにもならない強烈な感情が伝わってきて、俺はとうとう怒りを隠せなくなってしまった。驚いた顔でこちらを見ているだけのお父さんを、軽蔑と共に睨みつけた。


「あなたは息子さんが自傷行為までしてるのに、なにを黙って見てるんですか」

「っまさか、本当にやるとは──」

「それでも親ですか、本当に」


 吐き捨てるように言ってから、俺は本願くんの手を優しく持った。生きているとは思えないほど冷たくなっていて、すぐに両手で包んだ。「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせるように囁いて、爪が白くなるほどの力で握り締められているナイフに触れる。


「これ俺に貸してくれる? 大丈夫だから、ね」


 顔を覗き込むと、本願くんは目を泳がせたままゆっくりと拳を開いてくれた。「ありがとう」と受け取ると、張りつめていた糸が切れたかのように本願くんは脱力してアスファルトに座り込む。俺はこのナイフがこれ以上誰かを傷つけるのを阻止するために、ポケットに深くしまった。

 続けて先ほど脱いだサンタ帽を使って、本願くんの手首を止血する。冷えで血の巡りが悪いことも幸いし致命的な出血ではなかったが、早く病院に連れて行かなければならない。そのためにも、俺は教祖と決着をつけようと立ち上がった。


「……親子関係が破綻していたとしても、本願くんが神の代理である覡様なら、教祖としてもっと大切にすべきですよね。力を持っているのは教祖のあなたではなく、覡様の本願くんなんだから。救済会として、覡様の扱いが矛盾してるんじゃないですか」

「私を人でなしだと言いたいようだが、私は息子を大事に思い、時に厳しくも大切にしてきた。救済会がここまで大きくなったのは、祈が宗教のシンボルとして成功したからだ。私だけの力ではここまでの規模になれなかった。それは私にもわかっている」


 俺がナイフを取り上げ手当を行ったことで、本願くんにも自分にも被害が及ばないと判断したのかお父さんは焦りも悲しみも反省もない顔をしていた。この期に及んで息子に一言も声をかけずに言い訳を始めたのが、正直信じられなかった。


「しかし、息子に覡様という価値を見出したのも、息子が生きるために金を稼いでいるのも私だ。良い家に住まわせ、良い学校に通わせている。私なしで祈が生きてこられたとでも? 感謝される覚えはあるが、恨まれる覚えはない」


 うんざりだ、という眉の動きを見て、俺は目を伏せた。


(ああダメだ、この人は。本当にダメなんだ)


 何を言っても、何を見ても、自分が正しいという立場から絶対に動かない。息子を完全に道具として見ていて、その非道さに自覚がない。独裁者として完成してしまっている。多少なりとも理解のある人だったら、父と息子の和解も夢ではないかと思っていたけど、これはもう手遅れだ。

 俺はついに言葉での説得を諦めて、右手を高く挙げた。


「俺のターン、終わりにします!」

「は? 今度はなんだ──」


 俺がそう宣言すると、お父さんは口元を歪めた。歪んだ顔のお父さんの後ろ──万物救済会・渋谷本部の陰から、人影が出てくる。長い黒髪を三つ編みにして、黒いパンツに黒いダウンを着ている美少女だ。力なく座っていた本願くんは、スマホを手に近づいてくる彼女を見て目を見開いた。


「今までのこと、すべて録画させていただきました」


 スマホを手にした美少女──水原さんは本願くんの横に立ち、お父さんに向かってそう言った。

 状況を理解したのか、お父さんは音がしそうなほどに歯を噛み締めて、勢いよく水原さんを指差した。


「君は、水原家の……! 録画だと!? 信者が教祖の私を裏切ったのか!」

「いえ、裏切っていません。私の母は信者ですが、私は信者ではありません。あと、今も撮っているので言動には気を付けた方がいいですよ。もう醜態は十分すぎるほどです」

「どういうことだ! なぜ信者でもないのにここにいる! カメラを止めろ──」

「カメラは止めませんが、説明はするので待ってください。……竹原さん、祈くんにこれを。ストレスは脱水にもなるので」


 水原さんはお父さんの怒鳴り声に萎縮することなく『待て』を言い放ち、ダウンのポケットから小さい水筒を出した。受け取って開けると白湯が入っている。水原さんの気遣いに礼を言って蓋に白湯を注ぐと、本願くんは拒否せずに少し飲んでくれた。

 ホッとしながら水原さんとふたりで飲むのを見届けて、ふたりでお父さんに向かい合う。まず水原さんが切り出した。


「では、知りたいであろう経緯を説明します。12月25日に覡様が救済読経を行うという連絡が救済会から母に来ました。それで、祈くんは竹原さんからのメッセージに気づき、本部へ行く気なのだとわかりました。だから、竹原さんにそのことを連絡し、今日この場で祈くんを救う──『救出大作戦』を決行すると決めたのです」


 お父さんや他の信者に交換日記を読まれるかもしれない可能性を考えて、俺はかなりわかりづらいメッセージを日記に残した。『〇月×日に▼▼で待つ』と書ければ話は早いが、それを見られたら再び逃げようとしていると思われ、本願くんがひどい目に遭う危険性があった。だから俺は、苦肉の策で思いついた縦読み手法を使うしかなかったのだ。

 俺が伝えたかったのは『渋谷本部で待つ』、そして『日程はクリスマス、または年内に』ということだった。それを本願くんが理解して、行動を起こしてくれたのはまさに奇跡的だった。本願くんがメッセージに気づいても本部まで行けない可能性は高いと予想していたから、動きのないまま年が明けたらもっと力づくの強行策をとる予定だった。


「今朝、祈くんが家から出てくるのを、私は本願家そばに停めたタクシーの中で待っていました。祈くんが車に乗り込むのを見届けて、そのままタクシーで追走。本部に着く前にタクシーを降り、付近で待機している竹原さんに連絡。私はその間、人間にしか通れない狭い抜け道を使って先に本部へ到着していました。そして、ずっと建物の陰で録画を」


 水原さんはいまだお父さんに向けたままのスマホを指でつついた。

 信者は教祖を誰をも助ける素晴らしい人物だと崇めているが、実態は実子の覡様を無下に扱う非道な男だ。お父さんと本願くんの関係性を撮影できれば、お父さんにとって絶対にバラされたくない強力な物証となる、と一部始終の撮影を水原さんが提案した。その案に乗った俺は本部で車の到着を待ち構えようとしたが、「変な男が最初からいたら、警戒されて祈くんは車から出してもらえないと思います」と水原さんに指摘され、近辺で待機することになったというわけだ。感情的に行動しようとする俺と違って、水原さんは冷静で頭の切れる才女であり、彼女がいなければ今日の作戦は成しえなかっただろう。


「祈くんは私の家で匿います。お義父様が祈くんの解放を約束するまで」

「ペラペラと勝手なことを……! 私がそんなこと許すと──」


 水原さんが言い切ると、お父さんが掴みかかる勢いで腕を伸ばした。俺は間に入ってお父さんの腕を強く掴む。


「警察に届け出るなり裁判起こすなり、好きにしてください。俺はお父さんと違って失うモノも少ないですし。でも、代わりに今の録画は信者へばら撒きSNSにも流します。救済会存続のリスクとリターンをお考えの上、行動してください」


 お父さんは俺が掴んだ腕を振り払い、睨み殺そうとするような視線を向けた。しかし、こちらも折れる気はない。毅然とした態度で、水原さんと一緒にお父さんを見つめ返す。

 そのまま長く膠着状態が続くかと思われたが、ひりついた沈黙を破ったのは本願くんだった。


「……僕がいなくても、もう金儲けは十分でき、ますよね。だから、お願いだから、僕を解放して……ください」


 アスファルトに座り込んだまま、本願くんは泣いていた。静かにとめどなく涙を流して、声を絞り出していた。


「お父さんに迷惑、かけませんからっ……僕に普通の人生を、ください……っお願いします」


 俺も水原さんも、お父さんも。

 息を震わせて頭を下げる本願くん以外に、誰も言葉を口にしなかった。誰もかける言葉を持ちえなかった。彼の苦悩は彼だけのもので、共感も同情も軽々しく言うことはできなかった。

 だから俺は、本願くんの隣に座って、静かに背中をさすった。水原さんが救急車を呼び、やがてサイレンが聞こえてくる。お父さんはいつの間にかいなくなっていた。


「……大丈夫、もう大丈夫だよ」


 やっとそう言葉をかけると、本願くんの涙が嗚咽になる。

 救急車が来るまで、俺は背中をさすり続けた。

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