麦茶
水原さんに入ってもらうにはいささか汚すぎる部屋だったが、なりふり構っていられない。水原さんが座る床の周辺だけ物を退かして、僅かに残っていた麦茶を冷蔵庫から取り出した。1人分にしかならなかったので、着席した水原さんの前に1杯だけコップを置く。
「ごめんね、散らかってるし冷たい飲み物しかなくて」
「いえ、お気遣いなく」
麦茶に一応口をつける水原さんを横目に、寒い室内を少しでも暖めようとストーブを付けた。水原さんに熱が当たるように向きを変えてから俺は水原さんの前に座り、テーブルにあった交換日記を彼女に渡す。
「これ、本願くんとやってた交換日記。ちょっとでも悩みを書いてくれたらと思って始めたんだ。やり取りの最後で、本願くんが救済会について書いてる。俺が知ってる情報はそれだけです」
水原さんはノートをめくり、本願くんの筆跡を読んだ。しばらく待つと、水原さんはテーブルにノートを置いて「書いてあることは事実です」と言った。
「今から話すのはあくまで私が知っていることだけになります。祈くんがお義父様に何をされているのか、またそれで彼がどう思っているのか、心情まではわかりません」
前置きを聞いて、俺は頷く。水原さんはそうすると落ち着くのか、三つ編みを指先で撫でてから話し始めた。
「祈くんのお義父様が万物救済会の発案者であり、教祖です。救済会は困っている者すべてを助け、徳を積み、そうして自らを含めた万物を救済に導くことを掲げています。信者にとって祈くん──『
「かんなぎ様?」
「はい。それが救済会での祈くんの呼称であり、教祖に次ぐ地位とされています。神の力を実行する代替者のような意味で使われていますが、細かい意味はありません。実際は教祖であるお義父様の1人息子で、神の力などないですし」
水原さんは本当に信者ではないらしく、ドライに切り捨てる言い方をした。
「祈くんの家出は突然で、救済会は祈くんの家出を信者にひた隠しにしました。覡様が逃げたなどと信者には言えませんから、修行に出たとか適当な言い訳をしていたと思います。私は祈くんから『家を出た。学校も行かない』とだけ連絡が来たのでその事実を知っていました。祈くんは誰も頼らずにホームレスのような生活をしていたのですが、ある日信者に──私の母に見つかることとなります。祈くんにとっては想定外の災難で、母にとっては神のお導きとも言うのでしょうね。一般的な信者は覡様のご尊顔など知らないのですが、私がたまたま祈くんと同じ幼稚園だったので、私と母は幼いころから祈くんを見知っていました。信者は万物を助けることで自らも救われるという思想に染まっています。特に覡様である祈くんを助けることは最も徳の高い行いとされ、母は彼が父である教祖から逃げたことを知った上で隠れ家としてこのアパートを提供しました。これが祈くんがここに住んでいた理由です」
水原さんはテーブルにあった救済会のパンフレットを開いた。数ページ目で手を止め、見開きを俺に見せる。そこには訓戒とあり、『救済を施されたものは、その行為を無下にしてはならない』と書いてあった。
「この決まりがあるので、母の申し出を祈くんは拒絶できませんでした。母は当初、立派な高級賃貸を用意し生活費の何もかもを賄おうとしましたが、祈くんに安い物件にしてくれとお願いされ、母が折れてハッピーコーポを借りました。祈くんが住んでも大丈夫なのか、事前に自分で住んで確認までしていましたよ」
水原さんが少し鼻で笑った。憐れみが含まれていた。
つまり、坂下が見かけたおばさんというのは、水原さんのお母さんだったということだ。下見で住んでいる時期だったのだろう。
「どうして、水原さんのお母さんはそこまで……」
「宗教にのめり込む人は、大抵普通の人には理解しがたいですから。でも、救済会は新興宗教にしては案外良心的で、異常な献金などはありません。それがまた信者の心を掴み、信者の周囲にいる人間には宗教を辞めろと言いにくくさせています。被害があまりないですからね」
他のカルトとはうまく差別化されているわけだ。お互いに助け合って一緒に救われようという互助が信条だとすれば、救いの欲しい人たちにとってはいい宗教なのかもしれない。
本願くんにとっては地獄だとしても。
「母は当初、娘の私にも祈くんをハッピーコーポで保護していることを秘匿しました。母の頭の中は1人暮らしをしている祈くんのことでいっぱいで、住人に酷い目に遭わされていないか、他の信者に見つかっていないか、常に不安が駆け巡っていました。しかしいくら心配でも、家出をした祈くんを助けていると他の信者にバレたら祈くんに迷惑がかかるうえ、教祖に背いたということで自分が破門になるので接触は厳禁。限界の来た母は、覡様と幼馴染という素晴らしく幸福な娘に覡様を囲っている住所を教え、送り込んだのです」
「それが、初めて水原さんがハッピーコーポに来た日……?」
「そうです。祈くんは母の救済を受け入れ部屋に住み、その代わりに母に『接触禁止令』を出していたのに、娘が派遣されてきたので困惑していました」
あの日、ハッピーコーポに走って戻ってきた本願くんの、蒼白した表情が蘇った。こうしたちょっとした違和感はずっと、俺と本願くんの間に散りばめられてきたのだろう。俺が気づいてないだけで。
「そこで、祈くんは母がこれ以上暴走しないように『
「救済読経っていうのは?」
「救済会に伝わる独自のお経を、覡様が信者宅の1室にこもって七日七晩読経する儀式です。本当に金のある上級信者しか依頼できない最高級の儀式。住処を提供してくれた母の『救済』に対して、この儀式をお返しとして行うというものでした。要するに母を特別扱いすることで、言うことをしっかり聞いてもらおうとしたのです」
「……水原さんが来てからすぐ、本願くんがいなくなったのって」
「体調不良で実家にいるなどとお伝えしましたが、本当は我が家でずっと儀式をしていました。……祈くんには、竹原さんに宗教のことは何も言わないでほしいと強く念を押されていたので、あのようなウソを」
「すみませんでした」と水原さんはまた謝った。
日記でしか知らなかった宗教の話は、ここまで聞いてもまだフィクションじみていた。水原さんが語るたび、後戻りできない感覚だけが全身を覆う。
「本願くんって渋谷が嫌いだったんだけど……これも、宗教と関係ある?」
「……はい。救済会の本部が渋谷にあること。ゆえに渋谷区周辺は信者が多く出没すること。そして通っていた学校が渋谷にあること。これが主な理由だと思います」
ストーブがパキッと音を立てた。実家から持ってきたもので、かなり古いストーブだった。そろそろ買い替えないとだな、とこの部屋の会話と相反するごく一般的で平凡なことが頭をよぎった。
「中学に入学してすぐ、祈くんが救済会の2世なのは公然の秘密になりました。名良は渋谷という好立地に構えたそれなりの金持ち校で、一代で富を築いた成金に好まれる傾向が強く、金はあっても品はない血筋が多いです」
水原さんは、「私もそうです。父が成金で母は遺産相続で金を持て余して救済会に入信しました」と品のいい声で付け足した。
「それでも親が新興宗教をやっている子どもなんて滅多にいませんから、誰かがもらした情報があっという間に学校中に広がったんです。教祖のお義父様が学校に多額の寄付をしていることもあり、祈くんは2重の意味で有名になってしまって。悪目立ちした祈くんは程なくしてイジメの標的になったのですが、多額の寄付をする家の子を学校側が無下にするわけはなく、祈くんをイジメた生徒は全員退学になりました。正確には加害者の親は寄付金で退学を逃れようとしましたが、お義父様が親たちの合計金額を数倍上回る寄付をして圧をかけ、加害者たちを退学にさせました。それが原因で、祈くんは生徒にも親にも恐れられるようになってしまって。元々腫物扱いだったところ、更に輪をかけて孤立していきました」
まさに『触らぬ神に祟りなし』状態だったというわけだ。
「祈くんと交流を持とうとしていたのは、誇張なしに私だけでした。しかし、祈くんは母親が信者の私を友人とも恋人とも思ってはくれませんでした。信者の娘、それ以外の何者でもありませんでした」
「そんな寂しい認識では……ないと思うよ。本願くんは水原さんに感謝してるはずだよ」
「……ありがとうございます」
淡々と話していた水原さんが、少しだけ息を震わせた気がした。
事情が明かされれば明かされるほど、自分の犯した過ちが鮮明になるばかりで、俺は唸りながら頭を掻きむしった。本願くんの気持ちも知らないのに、実家に帰った方がいいなどと軽々しく言うべきではなかった。少なくとも俺は、話を聞いてそう思った。親が新興宗教の教祖で、幼いころから宗教に利用されていて、学校では友達もなく孤立していて、本願くんは親も教師も水原さんも頼らずに家出をした。彼にとって人生の味方など、ひとりもいなかったのだ。彼の家出がそれを表していた。
俺が唸るようなため息を吐いていると、水原さんが何か聞きたげに「あの」と俺の顔色を窺った。
「竹原さんは、祈くんが渋谷に行きたがらないとどうしてわかったんですか」
「ああ……前に渋谷にあるご飯屋さんに誘ったら、渋谷ってことをすごく嫌がってたからさ。結局は一緒に行ってくれたんだけど。今思えば他の客を気にしてそうだったのも、信者か同級生がいるかもしれないからだったんだね」
誕生日祝いで行ったゲテモノ料理店でカラスを心底嬉しそうに食べていた本願くんの笑顔を思い出していると、水原さんは目を見開いて口元に手を当てていた。
「そんなことが……あったんですか。いや、でも救済会から逃げた祈くんが、渋谷に行くなんて考えられません。……やはり、祈くんにとって竹原さんは特別ということなんですね。本当に、特別」
水原さんは噛み締めるように話す。彼女はまた、三つ編みを撫でていた。
「デリバリーの仕事中に、偶然お義父様の依頼を受け取ったと祈くんから聞きました。よくできた偶然、それ以外の何物でもないのでしょうけれど、私にはどうしても……竹原さんが本当の祈くんを知るために起きた必然だと思えてしまいます。そうだと……信じたくなってしまう。竹原さんが祈くんにとって特別というのは、ただ好かれているだけではない。本当に特別なのだと」
「……本願くんをどうにかできるのは、俺だけ。だっけ」
以前、水原さんが俺に言った言葉だ。今になってやっと、その発言の本当の重みがわかる。
「私の話、覚えていたんですか。……以前はただの予想でした。でも今は確信しています。祈くんを救済できるのは、竹原さんだけです。あなただけが、祈くんを救える」
水原さんは澄んだ瞳で俺を捉えて言った。言葉は説得でも励ましでも事実でもなく、まっすぐに突き刺さる懇願に聞こえた。彼女の手は、爪が白くなるほど握り締められている。
「……そしたらさ、ちょっとお願いがあるんだ」
俺は水原さんの視線を正面から受け止めた。もう、覚悟は出来ていた。
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