ボロネーゼ
宗教。
救済会。
父親が教祖。
なんだ、これは。わけがわからない。
本願くんは理路整然と事実を書いてくれたと思うが、突然突き付けられた情報を全然理解できなかった。彼の抱える状況が、家出など矮小にさせるほどいびつだった。
俺は坂下との電話を切って、気づけばバイクを走らせていた。本願くんの実家に行こうとしていた。
日記を読んで、本願くんが家に帰るべきだったのか、俺にはわからなくなっていた。だから、本人に直接本心を聞きたかった。
虐待されている、とは書いてなかったが、家庭環境は異常だ。若気の至りで家出をしただけで実態は幸せな一般家庭、とは到底言い難い。
「っ、この辺だと思うんだけど……」
しかし、1度配達で行っただけの家の位置など、正確には思い出せなかった。こんな家だったはず、という記憶を頼りに住宅街を走ったが、見当たらない。
路肩にバイクを停めて、本願くんにもお父さんにもLINEを送ってみたけどどちらも既読はつかなかった。お父さんに至っては、息子が帰ってきたから俺のことは用済みでブロックしているのではないかと思った。金儲けで宗教を立ち上げ息子を客寄せに使う父親だ、全然あり得る。実際に会った時は心から息子の帰りを待っているように見えたが、それも本願くんが宗教運営に必須だからだと思えて恐ろしかった。
その後もしばらく走って本願家を探してみたが、収穫はなかった。時刻は12時過ぎになり、俺は本願くんのお父さんがオーダーしていたレストランへ向かった。好きな店なのだとしたら店員が何か知っているかもしれない。昼飯のついでに聞いておこうと思った。
「お待たせいたしました。和牛のボロネーゼでございます」
「あの、ちょっとお聞きしたいことがあって」
「はい、なんでしょうか?」
「本願という常連客はいませんか。50歳くらいの男性なんですが」
「本願様……さぁ、わかりかねます。申し訳ございません」
注文したボロネーゼを運んできた男性店員は困った笑顔を浮かべながら、目線を一瞬店の奥に投げた。目線の先にはオーナーらしき男性が立っており、こちらを気にする素振りを見せる。それなりにいいレストランに、客としてダル着で来た俺は浮いている。それで普通に飯を食うでもなく常連客を探しているとなれば、変なやつという警戒を受けても致し方ない。
「もしかしたら、高校生くらいの男の子と一緒に来ているかもしれないんですけど、どうですかね」
「存じ上げないかと思います。お役に立てず申し訳ございません。他に何かありましたら、ベルでお呼びください」
どうせ警戒されているならもう少し突っ込んでしまおうと思って聞いてみたが、店員は笑顔を浮かべたまま去って行った。そううまく事は運ばない。
「……いただきます」
ワインが効いていておいしいボロネーゼは、もちろん高くて財布に打撃となった。それ以外、俺が得られた情報はなかった。
本願くんからLINEの返信もなく、俺は何の成果もないままハッピーコーポに帰ってきた。焦って突っ走っただけで惨敗だ。
本願くんを心配する気持ちばかりが勝って空回りする自分に肩を落としながらバイクから降りると、ドアの開く音が聞こえた。見れば102号室のドアが内側から開こうとしている。
「あ、本願くん!?」
荷物を取りに来たのではと思って、半ば確信を持って俺は駆け寄った。いつもの姿を見たかった。家庭環境は異常でも、父親とは和解できましたと笑う本願くんを見たかった。
しかし、102号室から出てきたのは、三つ編みの女の子だった。可愛い美少女だ。
「水原さん……」
俺が駆け寄るのをやめると、大きな紙袋とゴミ袋を持った水原さんは「こんにちは」と言って俺に歩み寄ってきた。
「祈くんは、実家に戻りました。ここにはもう帰ってきません」
「あ……そう、そっか」
俺はとっさにそんなことしか言えなくて、頭を振って今聞くべきことを振り絞った。
「あの、本願くんは大丈夫? 俺、えっと、宗教のこととか聞いたんだ。それで、なんか色々訳わからなくて……。連絡してみたけど返信もなくて、心配で」
「祈くん……話したんですね、救済会について」
水原さんは救済会について、当たり前に知っているようだった。彼女は少し目を伏せて、手に持っていた荷物を地面に置く。
「私は祈くんから部屋のものをすべて処分してほしいと依頼され、片付けていたところです。この依頼は早朝に送られてきていて、それ以降祈くんはスマホを取り上げられたはずなので連絡はつきません。……それで彼が、これを竹原さんにと」
なぜ自分がここにいるのか粛々と説明した水原さんが紙袋から取り出したのは、本願くんのクローゼットで見た厚い封筒だった。中身は見ずとも知っていたが、水原さんは札を取り出して俺に見せる。
「どうして、これを俺に……?」
「元々は私の母が祈くんに渡したものです。でも祈くんはまったく手を付けずそのまま残っていました。母に返しても受け取らないだろうと祈くんに言うと、それなら竹原さんに渡してほしいと頼まれたんです。お世話になったから、と」
「……お世話になんて、なってないよ全然。俺は受け取れない」
俺はポケットに手を入れたまま出さなかった。俺に受け取る意思がないとわかった水原さんは、それ以上押し付けることなく封筒を紙袋に戻した。そして、静かに頭を下げた。
「まず、謝らせてください。祈くんと同様、私は竹原さんにウソをついていました。祈くんに身寄りがないだとか、学校に特待生で通っているだとか。全部祈くんに都合の良いように、話を合わせていただけです。すみませんでした」
「……いいんだ、気にしないで。本願くんも水原さんも俺に謝る必要なんてない」
俺は呑気に本願くんと仲良くして、無責任な善意で家出をやめさせただけの男だ。大金をもらう権利も謝罪される理由もない。
「水原さんも……信者なの? 救済会の」
「いいえ、私は違います。母が信者で、本願くんにハッピーコーポの部屋を使わせていたのも母です。先ほどのお金も祈くんへのお布施として渡していました。それほど母は救済会に染まっています」
高校生ひとりじゃ、部屋は借りられない。大人の介入が必要だと少し考えればわかりそうなことに、今更気が付いた。
やっぱり俺は想像力が足りないみたいだ。俺がもっと色々考えて本願くんと接していたら、何か違っていたのではないかと思ってしまう。何が違っていたのかは、わからないけど。
「俺……ちゃんと本願くんのことを知りたい。俺のせいなんだ、実家に戻ったの。事情を何も知らなくて、想像もできなくて、未成年は保護者の元に戻るべきだっていう考えしかなくて。本願くんの1番そばにいたはずの俺が、本願くんのためにどうすればよかったのかちゃんと考えたい。だから、水原さんが知ってること、教えてくれないかな」
お願いします、と頭を下げると、水原さんは地面に置いていた袋を手に持った。
「私も、本当は祈くんのためにすべきこと、できることがあったはずだと後悔しています。小さい頃から一緒にいたのに、見守るだけ。祈くんがそれでいいならいいと肯定するだけ。彼のことを想っていながら、何も考えていなかった。……正直、祈くんは実家にいるべきではないと思っています。少なくともあの家に、幸せなどありません。そんなこと……とっくにわかっていたのに」
水原さんの声には悔しさが滲み出ていた。眉を寄せ深く息を吐いた水原さんは、俺を見る時には悲しみを消した凛とした表情をしていた。
「祈くんのこと、お話します。長くなるので、竹原さんのお部屋に行ってもいいですか」
「うん。……ありがとう」
俺は彼女が持つ荷物を代わりに持って、部屋へ歩き出した。
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