佐々木

 規律を守るイメージの菩提寺がそんなことを言うのは意外だったが、合宿で夜更かしなんていかにも高校生らしくていい。

 「じゃ、語り明かそう」と親指を立てて、電気を少し暗くすると布団に横になる。


「修学旅行みたいでテンション上がるな~。中学の時、体調不良で参加できなくて京都行けなかったんだよね」

「今年の修学旅行も関西だ。積年の思いを晴らせるな。よければ同じ班にしないか。一緒に回ろう」

「そうしよう! 行けるの京都、大阪、兵庫とかだっけ」

「奈良もあったはず。鹿に囲まれるのもいいかもな」


 菩提寺が鹿に囲まれている様を想像して笑う。雰囲気は大型の肉食獣っぽいが、草食動物に好かれそうな気がする。


「俺、菩提寺とこんなに仲良くなれると思ってなかった。剣道部の人だな~って遠目に見るだけで終わると思ってたよ」

「寂しいこと言うな。俺は善本のこと、緑化委員会で真面目に頑張ってるなと思ってた」

「え、俺が緑化委員会だったのよく知ってるね。しかもやってたの1年の時だけだし」

「1年も同じクラスだっただろ。男子が中庭でサッカーやって花壇が荒れた時、善本だけ活動日でもないのに花を直してやってるのを見た。それでいいやつなんだなと知ってから……仲良くなりたいとずっと思ってた」


 菩提寺はまっすぐに俺を見つめていた。

 菩提寺のような、学校で存在感のある人にそんなことを言ってもらえて、俺はすっかり照れてしまった。


「菩提寺が俺と仲良くなりたかったなんて信じられないな~。俺めっちゃ影薄いのに」

「そんなことない。善本がいるかいないかは俺にとって重要だ。影が薄いなんて思ったことないぞ」

「うわ、やめて。これ以上褒められたら顔赤くなるって」

「じゃあ赤くなるまで褒める。善本は人を悪く言わないし、善行を打算なしにできる。日直でもないのに黒板綺麗にしたり、花瓶の水取り替えてたり。徳が高い」

「菩提寺、俺のことめっちゃ見てるじゃん。待って、ほんとに照れるから話題変えよう。ここはひとつ、恋バナとか──」


 照れ笑いをしながら提案すると、突然腕に鳥肌が立った。治まることなく全身に広がり、背筋が寒くなる。

 なんだろうと思った矢先、刺すような動悸が始まった。


「っ!」


 異常な気配に俺は体を起こした。胸を押さえて窓の方を見る。

 窓?いや部屋の入口か?わからない。ものすごい速度で動いている。

 何かに見られている。何かが、俺を見ている。


「これは……なんだ……?」


 菩提寺も起き上がり俺の肩を支えてくれたが、その視線は気配を捉えようと宙を泳いでいる。

 まだ俺には何も視えない。なのに、確実にいると思わせた。それほど強大な何かが。


 ──ピンポーン。


 部屋のチャイムが突然鳴った。


 ──ピンポーンピンポン、ピンポンピンポン、ピンポン!


「下足番の佐々木です」


 けたたましくチャイムが連打された後、何事もなかったように男性の声がした。引き戸のすりガラスには人影が透けている。


「え……? あの──」

「答えるな」


 菩提寺は短く言って首を横に振った。強張った口元から俺と同じく動揺しているのが伝わって、声を飲み込む。


「佐々木です。ここ開けてもろてもええですやろか。開け、てもろても。ごめんください、ごめんなさい。ゆるしてください、開けて、もろても」


 不自然に訛っていて、口調がどんどん子供っぽくなっていく。俺たちが頑なに反応せずにいると、男性は黙り込んだ。

 ガラスの影が薄くなり立ち去ったのかと思った次の瞬間、バン!と入口の引き戸が叩かれた。

 いや手で叩いているのではない。頭突きだ。頭を打ち付けている。殴打は1度では終わらず、繰り返されるうちに引き戸が枠からずれる。

 鍵のかかっていない引き戸は、何者かの頭突きによって今にも外れそうだった。


「やばい、もう……っ」

「静! 起きろ!」


 思わず口に出すのと、菩提寺が叫ぶのが同時だった。そして、先輩が起き上がるのと引き戸が外れるのが同時だった。


「……来ちゃったか」


 先輩が呟き、人影が消え、静寂。

 張り詰めた空気の中、俺は巨大な憎悪が口から入ってくるのを感じた。


「っ! ぐっ……!」


 痛い。気持ち悪い。許さない。

 死ね、死ね。死ね。殺す。殺す、殺してやる。殺してやる、ゴミども。


 体を引き裂くような痛みと、憎悪の濁流が脳内を埋め尽くす。

 今までの憑依とは何かが違う。怒りと殺意で頭が沸いている。

 俺は今すぐ旅館の佐々木を殺さなければならなかった。あのゴミを処分しなければ。


(今すぐ、生きてることを後悔させてやらないと)


 目についた調度品の花瓶を取ろうと立ち上がったら、先輩の手が俺を阻んだ。


「あっ……!?」


 掴まれた手首から一気に背中まですべての皮膚を剥がされた感覚がして、俺は畳に転がる。痛い。痛い、痛い痛い。激痛に呻いて腕をさすったが、よく見ればどこからも、血の一滴も出ていない。それに気づく頃には痛みも消えていた。

 何が起きているのかわからなくて、目を泳がせながら俺を背に庇うように立つ菩提寺兄弟を見上げる。


「ダメだ、触れる直前に善本から離脱した。もうどこにいるかわからない」

「とにかく今はマコトくんの安全が先だ」


 振り返った静先輩は目線を合わせるようにして、「大丈夫」と俺を抱き寄せた。ピリピリと残っていた全身の不快感がなくなり、強張りが溶かされていく。

 止まっていた息をやっと吐き、俺は先輩に半ばしがみつきながら大きく息を吸った。


「い、今の、なんなんですか……っ」

「ただの悪霊にしては、力がありすぎる。人間に擬態までできるのはかなり珍しいんだ。しかもマコトくんの意識を乗っ取るだけじゃなくて肉体だか魂だかに癒着してた。離脱する時の抵抗感があったでしょ」


 先輩は周囲に注意を払いながら冷静に答えた。

 抵抗感どころではなく耐えがたい痛みだ。今までにこんな経験はなく、得体の知れない視線が俺をまだ見ていた。


「マコトくん。今のやつ、部屋にはいない?」

「は、はい……。でも、近くにいます。見られてる圧がずっと──」


 その時、廊下に“圧”が落ちた気がした。

 思わず外れて開けっ放しになっている戸の奥を見ると、薄明かりの廊下に人影があった。遠ざかりも近づいてもこない、棒立ちの影が。

 悪霊の擬態かと身構えると、その影は突如頭から倒れ、そのままぴくりとも動かなくなった。


「あの……あれ、廊下の見えますか……?」

「ああ。僕にも見えるよ、人間だ」

「俺が行く。静は善本を」


 菩提寺が廊下へ駆け出して、倒れている人のところでしゃがんだ。

 静先輩に支えられながら俺も恐る恐る廊下に出る。近づいてみると、倒れた人影は旅館の男性スタッフだった。40代くらいか。目も口も開かれ、瞬きひとつしない。

 完全に意識がなかった。


「俺、水とか持ってこようか……!? 旅館の人も呼んでこないと……!」

「いや、マコトくんは僕と部屋にいた方がいい。類、任せて平気?」

「ああ。霊の気配はしなくなったが、気は抜けない。善本は静といてくれ」


 男性の肩を叩いて反応がないのを確かめた菩提寺はそう言って、スマホを取り出し救急車を呼んだ。

 俺は静先輩に連れられて再び部屋に戻ったが、戻る直前、男性の着ている半纏はんてんの胸元にある刺しゅうが目に入った。

 『佐々木』と書いてあった。

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