変化

 その言葉と共に、目玉が金切り声を上げて蒸発する。ピアスが当たっただけに見えたが、跡形もなく消えていた。


「き、消えました……。ピアスでも除霊できるんですか」

「これ、シリコンの中に僕の血を入れて固めたものなんだ。昔思いついて適当に作ったんだけど、意外と役に立つ。備えあれば憂いなしだ」


 腕を掴んでいた俺の手を引いて、先輩は門の横の段差に腰掛けた。俺も隣に座り、懐中電灯をつけたまま地面に置く。


「……あんなそばに悪霊がいたのに気づかないなんて、俺の体質弱まったんですかね」

「うーん。地縛霊は他より頭が回るから、気配消してたんじゃないかな」


 静先輩は夜空を見上げた。開けた空には星がいくつも輝いている。


「そろそろキスしない? 今みたいな危険も減るよ」


 唐突な話だったが、不思議と驚きはしなかった。

 先輩が星から俺に視線を移し微笑む。

 懐中電灯の明かりがほのかに先輩の顔を形どっている。まつ毛の影が落ちて、俺を見る目はいつもより大人びていた。


「あー、えっと……」


 その瞳に吸い込まれそうで、俺は逃げるように自分の足元に視線を落とした。なぜか以前のような強い拒否はできなかった。

 代わりに、きちんと胸の内を整理して話しておこうと口を開く。


「……先輩と俺じゃ、キスの意味が違いすぎるんですよ。先輩は今までいろんな依頼者にキスしてきたから、キスくらいと思ってるんでしょうけど……。俺にはそんな簡単に出来ません。まだしたこともないし──」

「ん? いや、依頼者にキスなんてしないよ。普通に嫌じゃん、知らんおっさんとかとするの」


 きょとんとしている静先輩に、俺は流されそうだった雰囲気を壊す大声を出した。


「え!? キスに効果があるから俺に勧めてたんですよね!?」

「効果があるのは体液だよ。別にキスに意味があるわけじゃなくて、重要なのは唾液。一般人はごく少量で十分だから、希望者にはいつも小さい紙に含ませてあげてる。飲み込む用に」

「じゃあ、なんで俺にキスしようとするんですか!? 俺にも同じものくれたらいいじゃないですか!」

「そりゃ、マコトくんとはキスしたいから」


 当たり前という顔だった。

 あまりにも自然に言われて、俺は声が詰まって言葉が続かない。なんで俺とキスしたいんだと、なぜを重ねる勇気もなかった。


「そもそもマコトくんは飲む用の紙くらいじゃ足りないよ。マコトくんレベルだとキスが1番効率的だから、最初は本当に除霊の方法として提案してたんだけどね。それが今はもう……違うってだけ」


 先輩は穏やかに続ける。そこにはいつもの飄々とした軽さはなかった。

 一体どういう意味で言っているんですか。

 そう聞けばよかったのかもしれない。でも俺は先輩の目元を見つめるのに精一杯で、舌が行き場を失っていた。


「そんなに固まらなくても。無理矢理しようなんて思ってないよ。キスは好きな人とするものなんでしょ?」

「いや、あの、まぁ……」


 やっと声が出たらそんなことしか言えなくて、もっと意味のある言葉にしろと自分に呆れる。


「でもマコトくんがしてもいいって思ってくれるなら、したいな。……やっぱり恋人相手じゃないと嫌?」


 先輩は笑っているのに瞳の奥がどこか所在なく揺れている気がして、靄のせいで早まっていた心臓が違う意味でうるさくなっていく。

 どうしよう。

 どうしよう?

 ここで迷った時点で、俺は自分の心が大幅に傾いているとわかっていた。出会った頃なら迷うことなどなかったはずなのに、気づかない間に先輩との関係が大きく変わっていたのかもしれない。


(……除霊のため、だしな……)


 自分に向かって胸の内で言い訳をして、少し目を伏せる。

 先輩の手が何も言わない俺の頬にゆっくりと触れた。布が擦れる音すら耳に残る。俺は経験したことのない緊張に息を止めて──。


 ──バシッ!


 唇が触れ合う寸前。

 突然、長い木の枝が暗闇から現れて先輩の頭を打った。


「イッタァ!」

「離れろバカが」

「ぼ、菩提寺……!」


 菩提寺が枝の切っ先を先輩に向けて仁王立ちしていた。

 友人の登場によって一気に現実に引き戻された俺は、熱い顔のまま慌てて先輩から距離を取る。


「お前剣道をこんなとこで濫用するなよ! 小突くのもやめ!」

「俺が来てるのわかってやってただろ。その性格叩き直してやる」


 枝で面を決めた菩提寺は兄を小突き回して立ち上がらせた。

 騒ぐ兄弟を見るうちに心臓が落ち着いてきて、旅館に戻る頃にはどうにか平常心になっていた。

 でも、自分の気持ちを整理しようとするとすぐに俺を間近で見る静先輩が思い返されて、それ以上は何も考えられなくなってしまった。

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