第九話 右ストレート
「ありがとうございました!」
女性の言葉で舞は拳を突き出す姿勢を解き、正面を向く。
舞の目の前では、女性がバッグを両手に抱え、深々と頭を下げている。
舞は自分の右掌を眺めながら、少し前に起きた出来事の映像を脳裏に浮かばせる。
男が二メートル手前に迫り、舞は右手に握り拳を作った。だがこれは、舞の意思がそうさせたわけではない。
無意識のうちに出た行動だった。
舞の拳は男の腹部辺りを捉え、そのまま力を加える。すると男は、その力に押されるように宙を浮き、やがて仰向けの状態で倒れた。
舞が我に返ったのは、それからすぐだった。
目の前の女性はゆっくりと顔を上げ、笑顔を見せる。
「お強いんですね。格闘技か何かされていたんですか?」
ミディアムヘアーの女性がやさしい声で問う。
舞はわずかな間の後に首を横に振る。
「いえ。格闘技の経験は全然……無意識に出てたみたいで……」
舞が微かな笑みをこぼすと、目の前の女性は表情を変えることなく、目の前の女子高校生の右手を見つめる。
「もしかしたら、何かの力が宿ったとか」
女性のやさしい声からすぐ、舞の背後からやさしい風が吹き、二人の髪を撫でる。
やがて風が止むと、女性は自分の発言を恥じるように目を閉じ、口元を緩める。
「いえ、なんでもありません」
こう言葉を繋ぐとゆっくりと目を開け、再び舞と視線を交わす。
「改めて、ありがとうございました。お礼と言ってはなんですが、これを」
女性はそう言うと、バッグからチョコレートを取り出し、舞に差し出す。
「あ……いや、でも……」
舞が遠慮するようにこたえると、女性が問う。
「もしかして、チョコレート……」
女性が発しようとした言葉を先読みした舞は、首を横に振る。
舞はチョコレートが大好きだ。
舞自身は、自分の意思で男に右ストレートを喰らわせたわけではない。
お礼をされるほどのことはしていないという気持ちだった。
なかなかチョコレート受け取らない舞の姿を見て、女性はやさしい笑みをこぼす。
「私の気持ちです。嫌いでなければ、受け取ってください」
そして女性は、舞の右手にチョコレートを持たせると改めて頭を下げ、その場を後にした。
舞は右手に持ったチョコレートの茶色の包装紙を眺め、女性に向けて言葉を発する。
「ありがとうございます……!」
舞の表情には、謙遜と人の役に立ったという嬉しさの笑みがこぼれていた。
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