第二十三章|はじまりの夜

ナポリの街は、ざわめいていた。

カルロ・ロッセリーニ――いや、カルミネ・ロッソの名は

もはや誰もが知っていた。


「彼は天使だよ。孤児院をいくつも立ててくれた」

「違う、あいつは悪魔だ。裏で何人消したと思ってる」

「でも……街が静かになったのは、あの人が仕切ってからだ」


正義と悪。

救いと支配。

その境界が、どの顔にも揺らめいていた。


レオは黙って歩いた。

陽光の強い午後、石畳を踏む音だけが響く。

理性で押さえ込もうとしても、

その名を耳にするたび、胸の奥がわずかに疼いた。

一歩進むたび、自分が戻れない場所へ近づいている気がした。


正義の名のもとで、何度もあいつを追った。

それなのに――

追う理由も、もう見失いかけている。


見張る。見逃さない。

ずっと、そのつもりだった。

……なのに今は、ただ会いたいと願っている。

その瞬間、すべての理屈が音を立てて崩れていった。


姿は見えないのに、

この街の隅々に“彼の気配”が息づいている。


カルミネの作った学校、支援金の掲示、

街角に貼られた古い慈善広告。

子どもたちが笑い、店主たちは平和に商いを続ける。


だが――その穏やかさの裏で、

誰もが名前を口にすることを避けていた。

金も血も、この街では“ロッソ”の許しなくしては流れない。


救われた者も、支配された者も、

みな同じように、その名の下で生きていた。


どこもかしこも、彼の残り香だった。



その夜、レオは海沿いのホテルに着いた。

フロントの奥には、静かな照明と無機質な笑顔。

名前を告げると、受付係が一瞬だけ目を見開いたように見えた。

だがすぐに微笑みを戻し、金色のカードキーを差し出す。


「お部屋は――1035号室でございます」


「……ありがとう」


カードを受け取り、エレベーターに乗る。

静かな音を立てて上昇していく。

妙に広い廊下、絨毯に沈む足音。


指定された部屋の前に立ったとき、

レオは思わず足を止めた。


両開きの重厚な扉。

装飾の施された取っ手。

どう見ても、予約したタイプよりも上の部屋だ。


「……この部屋? 部屋番号は……間違いない」


小さく呟き、カードキーをかざす。

低い電子音。

ドアが静かに開いた。


中は驚くほど広く、海を臨む窓、磨かれたテーブル。

その上に――冷えたシャンパンと二つのグラス。


「……?」


レオは、しばらく動けなかった。

座っていいのかもわからない。

ただ、呆然と立ち尽くしていると――


そこに、ノックの音。


時計を見る。夜の十時。

心臓が、わずかに跳ねた。


「誰だ」

返事はない。

もう一度ノック。

慎重にドアを開けると――


カルミネ・ロッソが立っていた。


ほのかな照明の下で、余裕の微笑みを浮かべている。

まるでこの場所すべてが、彼の領土であるかのように。


嬉しさと警戒と安堵が、一度に押し寄せてくる。

追い続けた人物が、目の前に突如現れたというのに、

心の奥では「やっと見つけた」と叫んでいるのに、

思わず出た言葉は結局、一言。


「なぜ、ここがわかった」



「なぜって、ここは俺の街だ。ずっと見張っていたさ」

カルミネが肩をすくめて笑う。

まるで、どうだ、とでも言いたげだ。

「それに、このホテルのオーナーは俺なんでね」


レオは、思わず息を詰め、苦笑した。

「……そういうことか。お前らしい」


カルミネを部屋に招き入れる。

……ほんの一瞬、躊躇った。

それでも、扉を閉じた。

音が、やけに静かに響いた。



「それで?」

カルミネが低く問う。

「俺を調べ上げて、どうする気だ?」



レオは答えなかった。

代わりに、一歩、近づいた。



「……街中で、お前の気配を感じていた。

それなのに、隣にいないことが、思いのほか堪えた。」


その声は低く、かすかに震えていた。

そして、ためらいもなくカルミネを抱きしめた。


カルミネの瞳が揺れた。

ただ、静かにその抱擁を受け止めた。



「今さらだが、……お前が、好きだ」



一瞬の沈黙。

カルミネは小さく息を吐き、

声を絞り出すように言った。


「……お前を、地獄に連れて行くことになる」


抱きしめたまま、レオの腕に力が籠った。


カルミネの表情がかすかに崩れた。

ゆっくりと手を伸ばし、レオの頬に触れる。


「……なら、覚悟しておけ」


次の瞬間、唇が奪われた。

深く、貪るように、息も奪われるほど。

抗う気なんて、もうなかった。

欲しかった。

それだけだった。


呼吸と心臓の鼓動だけが、互いを確かめ合うように響いた。


ベッドの端に傾れ込みながら、

レオはカルミネの頬をなぞった。

自分の手が震えているのを感じた。

どこに触れればいいのかもわからない。

それでも、抱きしめずにはいられなかった。


男を抱くなんて、考えたこともなかった。

けれど――

いまこの瞬間、それが“生きる”ことのように思えた。


正しさよりも、真実を選んだ。

その代償がどんなに重くても、

もう構わなかった。


どちらからともなく、身体が傾く。

カルミネの背中が沈み、艶やかな髪がベッドに散らばる。

レオの影がその上に落ちる。


一瞬、レオはその美しさに息を呑んだ。


「……せっかくシャンパン、用意したのにな」

カルミネが息を整えながら微笑む。


レオが、わずかに顔を赤らめた。


カルミネはその様子に小さく笑い、

レオの首に手を絡ませ引き寄せた。


「後で乾杯しよう。喉、乾くだろ」


その声が低く、やさしく、どこか甘く響いた。

それだけで、抗う力を奪われるようだった。

レオは何も言えず、ただ頷いた。

頬の熱が収まらない。


カルミネの髪がシーツをすべる音だけが、

静かな部屋に溶けていった。



やがて、言葉がいらなくなった。

指先が布を探し、音もなくほどけていく。

どちらが先に触れたのか、もうわからなかった。


肌と肌の境が消えていく。

温もりが重なり、過去が静かに混じり合う。


レオの掌が、背中の傷をなぞった。

それは痛みではなく、確かに生きてきた証。

レオは、そこに唇を落とした。


カルミネの脳裏に、いくつもの夜が過ぎる。

名も知らない女たち。

利害のためだけに触れてきた男たち。


だが――この夜は違った。


銃を枕の下に忍ばせる必要もない。

駆け引きも、演技もない。

彼の存在が深く刻まれていく。

ただ、素直に受け入れていい。


奪うでも、許すでもない。

ただ、互いの呼吸を確かめ合うだけ。


こんな夜は知らない。



夜が、ゆっくりと更けていく。

窓の外には、静かな海。

光も、罪も、すべてを包み込むように。


誰も知らない夜。

ふたりだけの、最初の夜だった。二十三章|はじまりの夜


ナポリの街は、ざわめいていた。

カルロ・ロッセリーニ――いや、カルミネ・ロッソの名は

もはや誰もが知っていた。


「彼は天使だよ。孤児院をいくつも立ててくれた」

「違う、あいつは悪魔だ。裏で何人消したと思ってる」

「でも……街が静かになったのは、あの人が仕切ってからだ」


正義と悪。

救いと支配。

その境界が、どの顔にも揺らめいていた。


レオは黙って歩いた。

陽光の強い午後、石畳を踏む音だけが響く。

理性で押さえ込もうとしても、

その名を耳にするたび、胸の奥がわずかに疼いた。

一歩進むたび、自分が戻れない場所へ近づいている気がした。


正義の名のもとで、何度もあいつを追った。

それなのに――

追う理由も、もう見失いかけている。


見張る。見逃さない。

ずっと、そのつもりだった。

……なのに今は、ただ会いたいと願っている。

その瞬間、すべての理屈が音を立てて崩れていった。


姿は見えないのに、

この街の隅々に“彼の気配”が息づいている。


カルミネの作った学校、支援金の掲示、

街角に貼られた古い慈善広告。

子どもたちが笑い、店主たちは平和に商いを続ける。


だが――その穏やかさの裏で、

誰もが名前を口にすることを避けていた。

金も血も、この街では“ロッソ”の許しなくしては流れない。


救われた者も、支配された者も、

みな同じように、その名の下で生きていた。


どこもかしこも、彼の残り香だった。



その夜、レオは海沿いのホテルに着いた。

フロントの奥には、静かな照明と無機質な笑顔。

名前を告げると、受付係が一瞬だけ目を見開いたように見えた。

だがすぐに微笑みを戻し、金色のカードキーを差し出す。


「お部屋は――1035号室でございます」


「……ありがとう」


カードを受け取り、エレベーターに乗る。

静かな音を立てて上昇していく。

妙に広い廊下、絨毯に沈む足音。


指定された部屋の前に立ったとき、

レオは思わず足を止めた。


両開きの重厚な扉。

装飾の施された取っ手。

どう見ても、予約したタイプよりも上の部屋だ。


「……この部屋? 部屋番号は……間違いない」


小さく呟き、カードキーをかざす。

低い電子音。

ドアが静かに開いた。


中は驚くほど広く、海を臨む窓、磨かれたテーブル。

その上に――冷えたシャンパンと二つのグラス。


「……?」


レオは、しばらく動けなかった。

座っていいのかもわからない。

ただ、呆然と立ち尽くしていると――


そこに、ノックの音。


時計を見る。夜の十時。

心臓が、わずかに跳ねた。


「誰だ」

返事はない。

もう一度ノック。

慎重にドアを開けると――


カルミネ・ロッソが立っていた。


ほのかな照明の下で、余裕の微笑みを浮かべている。

まるでこの場所すべてが、彼の領土であるかのように。


嬉しさと警戒と安堵が、一度に押し寄せてくる。

追い続けた人物が、目の前に突如現れたというのに、

心の奥では「やっと見つけた」と叫んでいるのに、

思わず出た言葉は結局、一言。


「なぜ、ここがわかった」



「なぜって、ここは俺の街だ。ずっと見張っていたさ」

カルミネが肩をすくめて笑う。

まるで、どうだ、とでも言いたげだ。

「それに、このホテルのオーナーは俺なんでね」


レオは、思わず息を詰め、苦笑した。

「……そういうことか。お前らしい」


カルミネを部屋に招き入れる。

……ほんの一瞬、躊躇った。

それでも、扉を閉じた。

音が、やけに静かに響いた。



「それで?」

カルミネが低く問う。

「俺を調べ上げて、どうする気だ?」



レオは答えなかった。

代わりに、一歩、近づいた。



「……街中で、お前の気配を感じていた。

それなのに、隣にいないことが、思いのほか堪えた。」


その声は低く、かすかに震えていた。

そして、ためらいもなくカルミネを抱きしめた。


カルミネの瞳が揺れた。

ただ、静かにその抱擁を受け止めた。



「今さらだが、……お前が、好きだ」



一瞬の沈黙。

カルミネは小さく息を吐き、

声を絞り出すように言った。


「……お前を、地獄に連れて行くことになる」


抱きしめたまま、レオの腕に力が籠った。


カルミネの表情がかすかに崩れた。

ゆっくりと手を伸ばし、レオの頬に触れる。


「……なら、覚悟しておけ」


次の瞬間、唇が奪われた。

深く、貪るように、息も奪われるほど。

抗う気なんて、もうなかった。

欲しかった。

それだけだった。


呼吸と心臓の鼓動だけが、互いを確かめ合うように響いた。


ベッドの端に傾れ込みながら、

レオはカルミネの頬をなぞった。

自分の手が震えているのを感じた。

どこに触れればいいのかもわからない。

それでも、抱きしめずにはいられなかった。


男を抱くなんて、考えたこともなかった。

けれど――

いまこの瞬間、それが“生きる”ことのように思えた。


正しさよりも、真実を選んだ。

その代償がどんなに重くても、

もう構わなかった。


どちらからともなく、身体が傾く。

カルミネの背中が沈み、艶やかな髪がベッドに散らばる。

レオの影がその上に落ちる。


一瞬、レオはその美しさに息を呑んだ。


「……せっかくシャンパン、用意したのにな」

カルミネが息を整えながら微笑む。


レオが、わずかに顔を赤らめた。


カルミネはその様子に小さく笑い、

レオの首に手を絡ませ引き寄せた。


「後で乾杯しよう。喉、乾くだろ」


その声が低く、やさしく、どこか甘く響いた。

それだけで、抗う力を奪われるようだった。

レオは何も言えず、ただ頷いた。

頬の熱が収まらない。


カルミネの髪がシーツをすべる音だけが、

静かな部屋に溶けていった。



やがて、言葉がいらなくなった。

指先が布を探し、音もなくほどけていく。

どちらが先に触れたのか、もうわからなかった。


肌と肌の境が消えていく。

温もりが重なり、過去が静かに混じり合う。


レオの掌が、背中の傷をなぞった。

それは痛みではなく、確かに生きてきた証。

レオは、そこに唇を落とした。


カルミネの脳裏に、いくつもの夜が過ぎる。

名も知らない女たち。

利害のためだけに触れてきた男たち。


だが――この夜は違った。


銃を枕の下に忍ばせる必要もない。

駆け引きも、演技もない。

彼の存在が深く刻まれていく。

ただ、素直に受け入れていい。


奪うでも、許すでもない。

ただ、互いの呼吸を確かめ合うだけ。


こんな夜は知らない。



夜が、ゆっくりと更けていく。

窓の外には、静かな海。

光も、罪も、すべてを包み込むように。

ふたりだけの、最初の夜だった。

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