第二十二章|継がれぬ王

──夜。

ナポリ湾の灯りが、海面に揺れていた。


窓際に立つ男が、静かにワイングラスを傾ける。

深紅の液面が揺れた。血の色に近い、と一瞬だけ思う。


レオナルド・フィオーレ。

あの男の瞳に映った己の姿が、まだ胸から離れない。


(……今さら、か)


冷静に思い返す。

DIAの捜査官。正義の象徴であり、敵でありながら、その男だけは特別だった。

なぜなら、あいつはいつも正面から向かってきた。

銃も脅しもなく、ただ自分を見つめてきた。

その事実が、今も彼の心にわずかな軋みを残している。


(最初から、知っていたはずだ。

 お前はDIAの人間で、俺が誰かも、どこまで堕ちているかも――きっと、わかっていた)


それでも、あいつは離れなかった。

ただ、いつも変わらずに、真っ直ぐに自分を見ていた。

その事実が、今も痛い。


──


ナポリの片隅。名もない港町の孤児院。


そこが、カルミネの出発点だった。

名前も、生まれも、血筋もない。

だが、“使える”子どもだった。

目が利き、手が早く、物事の先を読む。

その噂は、やがて“あの人たち”の耳に届いた。

そして、ある夜、黒い車が迎えに来た。


「役に立て。さもなきゃ、捨てられるだけだ」



その言葉が、彼の生き方を決めた。

選べる道はなかった。

だから、痛みも恐怖も捨てた。

心を捨て、身体を差し出し、ただ生き延びるために牙を研いだ。

慈悲も、情も、微笑みも。

すべて、役に立たないものは捨てた。


──


やがて、組織は内部から腐った。

先代が酒に溺れ、派閥が割れ、血が流れた。


美しく成長した青年が最初に殺したのは、裏切り者の幹部だった。

ベッドの上で、男が覆いかぶさるように笑った。

指先が首筋をなぞり、息が触れる。

「怖いか?」

低い声が耳元に落ちた瞬間、カルミネはわずかに息を吸い込んだ。

枕元に潜ませていたベレッタの引き金を引いた。


銃声は一度だけ。

男の身体が重力に引かれて沈む。

シーツに広がった赤が、ゆっくりと滲んでいった。


香水と火薬の匂いが混ざり、部屋の空気がわずかに甘くなる。

カルミネはその上に立ったまま、呼吸を整えた。


それが、最初の夜だった。


二度目は、晩餐の席だった。

祝杯のグラスが触れ合う音と同時に、

彼はその男の喉を裂いた。


血がワインと混ざり合い、テーブルクロスが赤く染まった。

誰も声を上げなかった。


それが“秩序”という名の儀式だった。

以後、誰もカルミネに逆らわなかった。


彼は血の海を渡り、頂点に立った。

ただ囁きと視線だけで。

気づけば、誰も彼に逆らえなくなっていた。



名もない孤児だった彼は、その夜、ひとつの名を得た。

――ロッソ。血の名。

世界に牙を剥くための、最初の名前だった。


──二十九歳。

表向きには財団代表。

裏では、“ファミリーの王”


拾われ、育てられ、使われ、

そして、すべてを奪った。

その代償として、彼は誰も隣に置かなかった。

信用も、友情も、愛も。

それらすべては、“殺される理由”になると知っていたから。


──


だが、それでも。


その鉄壁の王国に、ひとつだけ割れ目があった。

レオナルド・フィオーレ。

国家の正義を背負う捜査官。

その男は、なぜか、それを壊してきた。

拳銃も持たず、脅しもせず、

ただ真っ直ぐに、自分を見つめてきた。


(愚かだ。なのに……)


カルミネは、グラスを傾ける。

ワインの液面が、まるで心の底に触れるように微かに揺れた。


(──あいつだけは、例外だった)

(……例外が、どれほど厄介で、壊れるものか。俺がいちばん知っていたはずなのに)



どこまで知っていたのかなんて、問題じゃない。

知った上で、なお“そこにいた”という事実だけが、

彼をどうしようもなく揺らす。


──


ふと、机の引き出しを開ける。


中には、銀色のライター。

あの夜、ふとした仕草ですり取ったまま、傷ひとつつけずに保っている。

火は点けない。

ただ、指先で転がす。


奪ってきたものは、いつも壊れるだけだった。

けれど――

いざ手に入れてしまえば、

怖いほど脆く思えてしまう。


離せば消える。

それがわかっているのに、離せない。


(……どうかしてるな、俺も)


そう呟いた声の奥で、

怯えにも似た震えが、

かすかに混じっていた。


苦笑でも、呟きでもない。

これまで何人も殺してきた男が、ただひとりを想っただけだった。

それだけのことなのに、息が苦しかった。


それが、生かされた理由か。


――カルロの頃は、良かった。


仮面の下にいれば、誰も傷つかず、誰も触れなかった。


だが、“カルミネ・ロッソ”として生きると決めた瞬間、

何かが静かに変わり始めた。


それが破滅か再生かは、まだ判断できない。

ひとつだけ確かなのは――


もう、何も感じないふりは続けられない、

それだけだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る