第二十章|報せの朝 ― 厄介な恋人―

ニュースは朝からその話題で持ちきりだった。

“慈善家カルロ・ロッセリーニの正体”

“国際サミットに潜む影”

各局が同じ映像を繰り返し流し、解説者たちが憶測を並べている。


DIA本部でも、早朝から会議室がざわついていた。

警護体制の再検証、報道対応、各国への照会――

どの部署も電話が鳴り止まない。


「厄介なことになったな」

誰かがそう呟いた声が、廊下に漏れる。


その喧噪の中、レオナルド・フィオーレは自席でひとり、書類を整理していた。

外の騒ぎなど、まるで別世界のことのように。


ふと、ニュース画面に目をやる。

カルロの笑顔が映し出され、テロップには「裏社会の黒幕」と大きく踊っていた。


レオは、短く息を吐いた。

(全く……厄介な恋人持ったもんだ)

手元のペンが止まる。

(……恋人?)

自分の心の声に気づいた瞬間、耳の奥が熱くなる。


そのとき、背後から声がした。


「どうした、ひとりで顔が赤いぞ。」


振り返ると、アントニオ・カヴァッリ局長が立っていた。

かつて現場を共にした上司であり、今もなお、レオが最も敬意を抱く人物。


「い、いえ。何でもありません。」


局長は小さく笑った。

「珍しいこともあるもんだな。春でも来たか?」


「……報告書の整理をしていただけです。」

レオが淡々と答えると、カヴァッリは頷いた。


「まあいい。こんな状況だが、お前には期待しているぞ。」

「ありがとうございます。」


局長が去ったあと、レオはわずかに息を吐いた。

心臓の鼓動が、いつもよりわずかに早い。


――外では、まだ報道の喧噪が続いていた。



DIA本部では、関連資料の精査が続いている。

表向きは成果報告の整理、だが実際には「一部資金の流出」「要人護衛の所在不明」といった案件が裏で動いていた。


その中心に、カルロ・ロッセリーニ財団の名があった。


調査統括は主席捜査官レオナルド・フィオーレ。

直属の上司は国際捜査課のバルバロ。

本来なら報告を受ける立場のレオが、自ら現地に赴くと聞いたとき、

レオの後輩である若き捜査官ルカ・ディ・ナターレは少しだけ驚いた。



「主席が行くんですか?」

「現場を見なきゃ判断できない。」

そう言ってレオは淡々と出張許可を取った。


ナポリ行きの車内でも、ほとんど口を開かない。

資料をめくるでもなく、ただ窓の外を見ていた。

ルカは、あの冷静さがどこから来るのか分からなかった。



ナポリ支局の会議室は、地図と港湾地区の写真で埋め尽くされていた。

壁際には冷めたエスプレッソの香り。窓の外からは、バイクのエンジン音と市場のざわめきがかすかに届く。


「報道の影響で、財団への問い合わせが殺到しています。」

若い捜査官が書類を差し出す。

「寄付金の一部が南部の企業を経由していた形跡が。ただ、現時点では“犯罪資金”とは断定できません。」


レオは資料に目を通し、静かに言った。

「現地を確認する。」



財団の事務所は落ち着かない空気に包まれていた。

職員たちは書類を整理し、電話が鳴り止まない。

受付のカウンターには新聞が開かれたまま置かれている。

一面には、“慈善家カルロ・ロッセリーニの正体”という見出し。


「ニュースになってから、大変なんですよ。」

若い女性職員が苦笑した。

「寄付金の確認や問い合わせばかりで。

 でも、うちはいつも通りです。カルロ氏はカルロ氏ですから。」


「……報道の件、ご存じだったんですね。」

ルカが尋ねると、彼女は肩をすくめた。


「ええ。けど、知ったところで何が変わるんです?

 彼がここを作ったのは事実ですし、支援が止まったわけでもない。

 あの人が何者でも、子どもたちのノートは増えていきます。」


その言葉に、ルカは何も答えられなかった。

レオは机の上の新聞に視線を落とした。

見出しの横に、カルロの笑顔が印刷されている。

(……完璧な仮面だな)


事務室を出ると、清掃員の老女が通路を掃いていた。

グレーの制服に名札。白髪をきっちりまとめ、顔つきは穏やかだ。


ルカが軽く会釈して声をかけた。

「すみません。この建物に“カルロ”さんが来られることはありますか?」



老女はモップを止め、少し笑った。誇らしげにも見えた。

「ええ、ときどきね。

 そりゃあ、女性職員に人気でね。挨拶ひとつでみんな張り切るんですよ。」



ルカはメモを取りながら、軽く話を合わせた。

「財団は教育にも力を入れてると聞きました。」


「ええ、そうですよ。」

老女はモップを壁に立てかけ、腕を組んだ。

「ここに来る子たちは、みんなよく勉強してます。

 街を動かすのは“今も”未来も、“頭のいい子”なんですよ」


ルカが顔を上げると、老女は少し遠くを見ていた。

その視線の先で、レオが一瞬だけ目を細めた。


――その言葉が、脳裏に浮かんだ。

あの朝、静かな光の中で見た背中。

暴力に晒され、それでも生き延びた痕。


「頭のいい子」――

そうでなければ、生き残れなかったのだと。


レオは小さく息を吐き、表情を戻した。


「ここにはモレッティは来るか?」


老女はモップを持ち直し、穏やかに笑った。

「ロッソの?ああ、何を知りたいのかわかりませんが、見たことも在りませんし、関係ありませんよ。」


モップの先が床を擦る音が、短く止まり、すぐにまた動き出した。



建物を出ると、午後の光が路地に落ちていた。

レオはしばらく無言のまま歩いていたが、

階段を降りきったところで小さく言った。


「――あの清掃員、知ってるな。」


ルカは足を止めた。

「カルミネを、ですか?」


レオは答えず、視線を前に向けた。

「報告には書かなくていい。」


それだけ言うと、車のドアを開けた。

ルカは黙って後に続いた。

  


車はゆっくりと街を抜けた。

海沿いの通りを走りながら、ルカは助手席の資料を閉じる。

「……収穫は、なさそうですね」


レオは短く答えた。

「いや、成果はあった。」


「成果、ですか?」

「奴の街を見た。」


それ以上は何も言わなかった。


ナポリ支局に車を返却し、簡単な報告を済ませると、

ふたりはそのまま駅へ向かった。

夕方の光がビルのガラスに反射している。

街は、相変わらず穏やかで、静かだった。


駅に着くころ、太陽は傾き始めていた。

構内のざわめきの中を、レオは無言で歩く。


「先に車両確認してきます」

ルカが離れ、レオはひとりでホームに立った。

海風が微かに吹き抜ける。


そのときだった。

背後から聞き慣れた声がした。


「……ずいぶん早いな、帰るのが。」


振り返ると、柱の陰にひとりの男が立っていた。

エリオだった。

黒いジャケットの裾を揺らし、ポケットに手を突っ込んでいる。


レオは一瞬だけ目を細めた。

「……何の用だ。」


「ボスに会いたかった――ってわけか?」

エリオが口の端を上げる。


エリオの言葉の中の“ボス”という響きに、

レオの表情がわずかに穏やかになった。


「そうだ、と言ったら?」

レオは、ふっと笑った。


エリオは短く息を吐き、やれやれと肩をすくめた。



「主席!」

ルカが駆け寄ってくる。

「発車まで五分です。」


レオはさっきの柱の方を見た。

だが、そこにはもう誰の姿もなかった。


海風が一瞬、ホームを抜ける。

レオは視線を戻し、無言で列車に乗り込んだ。

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