第十八章|仮面の下で ― 国際サミット ―

二日目。

会議場の空気は、前日よりもさらに張り詰めていた。

各国代表たちは慎重に言葉を選び、

互いの利害を探り合いながら、裏では静かな駆け引きを続けている。


警護チームも同じだった。

わずかな休憩にも神経を尖らせ、

一瞬の隙すら許されない。


レオは無線を片手に、要人たちの動線を鋭く見守っていた。


その視線の先――カルミネ・ロッソがいた。


完璧なスーツ姿、穏やかな笑み、知的な振る舞い。

多くの者は「カルロ・ロッセリーニ」として彼を記憶している。

だが今、そこに立つのは「カルミネ・ロッソ」だった。


どちらが本名で、どちらが仮面なのか。

それを正確に言い当てられる者など、誰一人としていなかった。


(……これが、あいつの答えか)


あの男がそこにいるだけで、空気が少しだけ歪む気がした。

理屈では説明できない緊張が、レオの神経を逆撫でした。


「フィオーレ主席、休憩に入ってください。仮眠室、準備できてます」


後輩の声に小さくうなずき、時計を確認する。

エレベーターのドアが閉まる直前、

レオは自分にだけ聞こえるほどの声でつぶやいた。


(……気を緩めるな)


その先で、思いもよらぬ“再会”が待っているとは知らずに――。


彼はまだ、カルミネの姿が会場から消えたことに気づいていなかった。



──同じ頃、ホテル地下のサービスエリア。

鏡の前に立つカルミネ・ロッソは、白い制服の襟を整えた。


配置図と警備ルート、DIAの交代時刻、監視カメラの死角、非常階段の位置まで、すべて頭に叩き込んである。


「……十五分」

会議を抜けられるのは、そのわずかな隙だけ。


胸の鼓動を抑えながら通用口を抜ける。

「……これでいい」


そしてスタッフ専用エレベーターに乗り込むと、

それは静かに、彼を“再会の階”へと運んでいった。


仮眠室が用意された階で、エレベーターの扉が開く。

静かな廊下。カーペットに足音が吸い込まれていく。

ドアの前には、ワゴンを押すホテルスタッフがひとり立っていた。


「ルームサービスです。軽食のご用意を」


「……頼んでないが?」


「DIAの方々に、ホテル側からのご厚意で」


わずかに訝しみながらも、レオはカードキーをかざし、ドアを開けた。

そして――その瞬間、背後から腕を取られた。


反射的に投げを掛け、相手の体が床に叩きつけられる。

「……っ」

床に沈んだ声。

レオが銃を抜く前に、倒れた相手がウィッグを外した。


黒髪がこぼれ落ち、いたずらな笑みがのぞく。


「さすがの反応速度だな。俺には無理だ」


「……カルミネ⁈」


一瞬、空気が止まった。

安堵が喉を駆け上がり、同時に怒りがその上から押し潰す。


「お前……なんて真似を」

声は低く、震えていた。


カルミネはゆっくりと立ち上がり、皺になった制服の裾を直す。


「もう隠す理由はない。

 ――黙っていてくれたことには、感謝している」


レオの表情がわずかに揺れる。


「……こんな形で明かすつもりだったのか」


「俺がどう動こうと、いずれは暴かれる。

 だったら、自分の手で開ける方が性に合う」


「……」


言葉の裏に、僅かな苦みが滲む。

その苦みを、レオだけが理解していた。


カルミネは微かに笑い、低く問う。

「……これでも、側にいてくれるか?」


レオは、しばらく何も言わなかった。

この男は、“強さ”の中に“孤独”を閉じ込めている。

そして、自分を必要としている。


だが――その“必要とされること”が、

間違いなのかどうか、レオにはもうわからなかった。


あの夜、丸腰で現れた姿が、ふと脳裏をよぎる。

あのとき、答えは出ていたのかもしれない。


怒りも使命も、そしてこいつも――

すべて、その答えの上に積み重なっただけだ。


レオは短く息を吐き、目を逸らさずに言った。

「……俺は変わらない」

そして、ほんの一拍置いて続けた。

「お前がくれたものを、今さら手放す気はない」


その瞬間、カルミネの表情から、緊張がすっとほどけていった。


顔を上げると、ほんの一瞬だけ迷いを見せ――

そのままレオの唇に触れた。


柔らかく、短いキスだった。

奪うでも、挑むでもなく、確かめるための一瞬。


その瞬間、レオの頭の中が真っ白になった。

恐怖も興奮も、混乱も安堵も、ひとつに溶け合った。


唇が離れたとき、カルミネの息がかすかに震えた。

レオの唇の端に、熱だけが残る。


「……ずっと、こうして確かめたかった」


その言葉が落ちるより早く、

レオの手がカルミネの頬を掴んでいた。

理性より先に、身体が動いた。


今度はレオが、唇を重ねる。

応えるように、返すように。

もう何も確かめる必要はなかった。


カルミネの肩がわずかに震え、

その震えを、レオはただ受け止めた。


二人の呼吸がひとつになり、

ほんのわずかな沈黙の中に、

これまでの年月すべてが融け合たようだった。


唇が離れたあと、レオが低く囁く。

「……これで、わかったか?」


短い沈黙。

カルミネはふっと息を吐き、口の端にかすかな笑みを浮かべた。


「……奪われるのは、俺の方かもな」


その声には、わずかな嬉しさと、静かな降参が混じっていた。

どうしようもなく、レオに“奪われた”ことを自覚しているように。



やがてカルミネは、レオの目の下に刻まれた疲労の色に気づく。

「さすがに疲れてるな、……俺のせいか」


レオは思わず笑った。

「そうかもな。……でも、全て吹き飛んだよ」


「……バカ言え」


カルミネは、そっとレオの肩に手を置き、軽く押してベッド脇に座らせた。

「少し休めよ」


そう言うと、レオのネクタイに指を伸ばした。

「……なにを」

「息、詰まってる。少し緩めろ」


結び目をほどく手つきは、妙に静かで、ゆっくりだった。

次の瞬間、第一ボタンが外される。

白いシャツの襟元に、カルミネの指先がかすかに触れた。


「おい……カルミネ」

「安心しろ、何もしない。……たぶんな」


わずかに笑みを残して、カルミネは背を向けた。

そして、そのままシャツのボタンを外し始める。


レオの眉がぴくりと動く。

「おい……何を――」


カルミネは片袖を抜きながら、短く言った。


「変装だ。見逃せ」


シャツが床に落ちた瞬間、空気がわずかに揺れた。

“カルミネ・ロッソ”という男の輪郭が、

少しずつ“別の存在”へと溶けていくようだった。


露わになった背には、いくつもの古傷。

光に照らされて、まるで過去がそのまま刻まれているようだった。


静寂の中、カルミネがわずかに振り返る。

「……ファスナー、閉めてくださらない?」


レオの喉が、ごくりと鳴った。

手を伸ばしかけて、止まる。

目の前のその背中に触れることが、

職務でも、赦しでも、愛でもない――

ただ“罪”のように感じた。


カルミネは微かに笑う。

「……どうした。手が震えてるぞ、主席捜査官」


そして、ゆっくりと振り向いたとき――そこにいたのは、絶世の美女。


「どうだ、似合うか?お前の好みかと思って誂えた」


レオは言葉を失った。


「お前を慕う部下が廊下にいる。

……安心しろ、完璧な淑女だろ」


カルミネはヒールを鳴らし、ドアノブに手をかける。


「おやすみ、捜査官」


静かに微笑んでドアを開けた瞬間――

向こう側からノックの音が重なった。


「フィオーレ主席、失礼します」


廊下には、DIA分析官・ミラーニが立っていた。

片手には小さな箱。

「差し入れを……。徹夜続きでしょうから」


その声が途切れる。

扉の向こうから現れたのは、黒髪を艶やかに流した“絶世の美女”。


カルミネは何事もなかったように一歩進み出て、柔らかく会釈した。


その笑みは――勝ち誇った女王の微笑み。世界を制する者だけが見せる孤高。


ミラーニは息を呑み、言葉を失う。

その一瞬で、彼女は“完璧な女”を信じてしまった。


カルミネは視線を逸らさず、

まるで舞台を降りるように背を向けた。


その後ろ姿が消えたあと――

空気だけが、香りと余韻を抱いて震えていた。



「……あの、主席。今の方は……?」


レオは数秒、目を伏せてから答えた。

「……知らん。夢だ」


はだけた襟元を見て

ミラーニの頬がみるみるうちに紅潮していく。

何かを言いかけて、結局、言葉が出なかった。

指先のタルトの箱がわずかに震える。


ミラーニの視線に気づき、レオは慌てて襟を正した。

だが、それは逆に“何かを隠そうとしている”ようにも見えた。


(……ちくしょう。

 またやられた)


レオは小さく息を吐き、

「お前も、戻れ」

とだけ言って、扉を静かに閉じた。


ドアを閉めたあと、

彼はようやく呼吸を取り戻した。

……頬が熱い。どうやら完全にやられたらしい。


外の廊下では、彼の気配は消えていた。

ただ、ほのかな香りだけが、そこに彼がいた事実を証していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る