第十七章|開幕の朝 ― 国際サミット ―
仮面は、光のど真ん中で割れる。
ウィーン、ホテル・インペリアル。
各国の首脳と財務官僚が集い、国家戦略の行方を決める国際サミットの開幕を待っていた。
シャンデリアの光が降り注ぐ中、場を支配していたのは静寂と緊張だった。
その中心に立つのは、DIA主席捜査官レオナルド・フィオーレ。
初めて挑む国際舞台だった。
「フィオーレ主席捜査官、あと五分で要人入場です」
隣に立つ女性分析官ミラーニがタブレットを抱え、淡々と報告する。
レオは頷き、低く答える。
名簿にはカルロ・ロッセリーニの名。
慈善家の仮面を被って現れる――そのつもりなのだろう。
だが胸の奥に違和感が残る。
あの声が蘇る。
世界も、そしてお前も。すべてこの手で奪い尽くす。
……そういう男だ。
ほんのわずか、空気が動いた。
レオは眉を寄せ、胸の奥で鈍く何かが疼くのを感じた。
「配置は?」
「完了しています。ただし……中央花道の左右に死角が二つ。もし何かあれば――」
「……俺が行く」
その声が、ざわめきに紛れて消えた瞬間――
会場の視線の一部が、ふと入口へと吸い寄せられた。
入口付近。
受付係が名簿を確認し、恭しく頭を下げる。
「カルロ・ロッセリーニ様、ようこそ」
黒のスーツに赤のポケットチーフを差した男が、落ち着いた足取りで会場へ入る。
その右斜め後ろには、無骨なスーツに身を包んだ男――エリオ・モレッティ。
裏社会に通じる者なら、一目でわかる顔だった。
ロッソファミリーのナンバー2。冷酷さと忠誠心で知られる副官。
無駄のない動き。歩幅も呼吸も、護衛というより処刑人のようだった。
ロッソファミリーで常に表に姿を見せていたのはこの男だった。
取引も交渉も、命令の伝達も――すべて“ロッソ”の名を背負って動いていたのはエリオだ。
誰もが、彼こそがファミリーの頭脳であり、実質的な支配者だと信じていた。
本来のボス――カルミネ・ロッソの名は裏社会では伝説のように知られていたが、
その顔を知る者は、ほとんどいなかった。
ロッソファミリー――イタリア南部から中東、東欧にまで息を伸ばす巨大組織。
政治も企業も、裏の金の流れに抗えた者はいない。
(……なぜエリオ・モレッティがここに?)
(しかもカルロ・ロッセリーニと……)
会場のあちこちで、抑えきれない囁きが連鎖する。
政治家は視線を泳がせ、官僚は表情を固くし、諜報関係者たちは即座に無線へと手を伸ばす。
一方、報道陣はまだその名を口にできず、静かにシャッターを切り続けていた。
二人の向かう先――DIA主席、レオナルド・フィオーレ。
「主席、あれは――」
ミラーニが息を呑み、言葉を失う。
(ロッソファミリーの……?)
誰もが動けない中、カルロ――いや、その男はまっすぐに歩み出た。
レオの前で足を止め、ゆっくりと微笑む。
「これは、フィオーレ捜査官」
声はよく通り、周囲のざわめきを一瞬だけ押しとどめた。
そして――躊躇いなく握手の手を差し出しながら、
一瞬の沈黙。
「カルミネ・ロッソだ」
その名が放たれた瞬間、会場の空気がひび割れた。
表の名が覆され、裏の名が曝される。
何人かは息を呑み、何人かは目を細め、何人かは口元を歪める。
レオはその手を見下ろし、一歩も動かず、氷のような表情で立ち尽くす。
(……なんてことをしやがる)
背中にじわりと汗がにじむのを感じながらも、指一本動かさなかった。
背後のエリオが、あえてよく通る声で言った。
「……ボス」
レオの肩がわずかに動く。
カルミネは、静かに視線を返した。
その一言が、場の疑念を確信へと変える。
もう誰も、この二人を“偶然の同伴者”とは思わなかった。
一瞬、世界が静止した。
周囲のざわめきが遠のき、視界には互いしかいなかった。
「そんな顔をするな。ここでは、笑顔が礼儀だろう?」
「……何を企んでいる?」
「何も。ただ、わたしは――どれも真実だ、ということを知ってほしくてね」
そして一歩、距離を詰める。
琥珀色の瞳がまっすぐにレオを射抜く。
声は外に漏れぬほど低く――だが、確かに届いた。
「……捜査官、君の目には、俺はどう映っている?」
わずかに間を置き、レオは無表情のまま答えた。
「お前を見失うことはない」
カルミネは口元に薄く笑みを残し、エリオを伴って背を向けた。
その足取りは遅すぎず、早すぎず――場の空気を掌握した者の歩き方だった。
去り際、ふと視線を横に流す。
タブレットを抱えるミラーニと目が合うと、ほんの一瞬だけ、唇の端を上げて見せる。
そのとき、後方で控えていた若手の捜査官が声を漏らした。
「“カルミネ・ロッソ”? ……カルロ・ロッセリーニと同一人物……?」
「待て、え? じゃあ、俺たちが追ってたあの男が……?」
一人、また一人と顔を見合わせる。
小さなさざ波のように、動揺が広がっていく。
「冗談だろ……マフィアの黒幕が、堂々と……」
誰もが言葉を失っていた。
その中で、ただ一人――レオだけが冷静に、目を閉じた。
「……動揺するな。目の前にいるのは、“本物”のカルミネ・ロッソだ」
カルミネは会場中央へと戻っていく。
その動きはゆったりとしているのに、進む先の人垣が自然と割れていく。
背後にはエリオが影のように寄り添い、二人の通る道を静かに守っていた。
最初に声をかけたのは、ヨーロッパ経済圏の要職にある大臣だった。
形式的な挨拶を交わそうとした大臣の手を、カルミネは軽く握り返す。
わずかに傾けた顎、照明を反射する深紅のポケットチーフ――その一瞬で、相手の呼吸は乱れた。
「わたしが何者であっても、あなたの利にはなる。今夜の票読み、お困りでは?」
穏やかな声色が耳に残り、大臣の表情から迷いが消える。
まるで同意を引き出されたかのように、小さく頷き、別の話題へと移っていった。
それは一人だけではなかった。
企業家、金融界の重鎮、各国の外交官――カルミネは順に声をかけ、短い言葉で警戒を解き、会話の主導権を奪っていく。
動きはあくまで緩やかで、誰からも不自然に見えない。
だが、気がつけばそこにいる者は皆、彼を中心に話していた。
恐怖とざわめきは、瞬く間に“利”へと形を変えていった。
「……危険だが、味方にすれば強力すぎる」
「利用できるかもしれん」
政治家も外交官も、恐怖より欲に従う。
人間の浅ましさを、カルミネは最初から計算に入れていた。
(……滑稽なものだ)
ふっと口元に浮かんだ笑み。
それは、会場の誰も気づかないほどわずかな嘲りだった。
だが――レオだけが見逃さなかった。
目の奥に潜むその冷笑を。
そして、自分にだけ向けられたような錯覚を。
(……やってる)
あの柔らかな笑みの裏で、場の重心を少しずつ自分の方へ傾けている。
まるで静かに水面を満たす潮のように。
近くの捜査官が小声で報告してくる。
「主席、来賓端末からE2E暗号のサイドチャネル。金融・外務・私設秘書の三経路、同時に動いてます」
レオは視線だけで周囲を掃き、袖口に指を滑らせ、囁く。
「Z-2、静脈識別でゲート再認証。録画はローリングに切替」
「……続けろ。全員の動きを記録しておけ」
すでに情報戦は始まっていた。
官僚たちの端末から送られる暗号通信、諜報員たちの視線の交差、表の笑顔の裏で交わされる名刺や暗示。
カルミネの動きに呼応するように、場の水面下は音もなく荒れ始めていた。
それでも彼は、会場の中央──各国の視線が交差する一点に立ち、微笑を崩さなかった。
琥珀色の瞳がふと遠くのレオを捉える。
ただ、それだけで――レオの背中に、再び汗が滲んだ。
(……本当に、やってくれたな)
その瞬間、胸の奥で何かが静かに軋んだ。
あの傷だらけの背を、世界の前に晒すつもりか。
俺の目の前で、挑発のように。
(……俺の正面に立つつもりか)
自分でも驚くほど、珍しく怒っていた。
冷静に見せれば見せるほど、内側が焦げついていた。
すぐさま周囲を見回し、部下たちに指示を飛ばす。
動線の修正、要人の移動、情報遮断。
会場のざわめきと、水面下で交錯する無線が、同時に熱を帯びていく。
次の一歩で、世界が片方に傾く。
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