第十三章|夜明けのはじまり ― 境界を越えて
──銃を下ろしたあと、しばらく誰も動かなかった。
ただ空気だけがゆっくりとほどけていった。
カルミネはテーブルへと歩み寄り、
トマトを、まるで何かを手放すようにそっと置いた。
赤く熟れたそれは、これ以上何も壊さぬように、静かにそこに鎮まった。
そして──
無防備なまま、静かに背を向ける。
シャンパンのボトルに手を伸ばす。その肩甲骨が、わずかに呼吸していた。
だが、視線は終始ボトルに注がれたまま。振り向こうとはしない。
レオは、その背を見つめながら息を呑んだ。
──その後ろ姿。
(……本当に、武器は持ってきていない)
肩越しに見える背中。
腰にも、腕にも、不自然な膨らみはない。
何も、持っていない。
ただそこに、無防備に立っている。
当たり前のようにボトルを持ち、グラスに注ごうとしている。
背中を晒すということが、どういう意味を持つか。
戦いを知る者なら、誰よりも知っている。
(……それを、この男は、自分の意思で選んだ)
(……もし、俺が撃ってたら)
扉を開けた、その瞬間に。
引き金を引いていたら──
この男は、なす術もなく、その場に崩れ落ちていた。俺の足元で血を滲ませながら。
冷たい床に広がるその血を、俺はただ、見下ろしていたかもしれない。
(……そんなもん、あるかよ)
レオの胸の奥にざらつくような衝動が走る。
この男は、撃たれるかもしれないとわかっていて──
それでも、自分に会いに来たのだ。
真正面から。
逃げも隠れもせず、武器も持たず。
たったひとつ、トマトを手に。
レオは、ふと息を吐いた。
その音が、部屋の静けさにかすかに溶ける。
何かが、確かに過ぎた。
撃つか、赦すか──その境目にあった時間が、いま終わった。
ボトルに手をかけたままのカルミネは、まだ振り向かない。
けれど、その背から伝わってくる気配が、ほんの少しだけ変わった気がした。
そして、背を向けたまま、低く、問う。
「……まだ、怒ってるか?」
静かな声だった。
感情はなく、ただ事実を確認するような響き。
レオは短く息を吐き、目を伏せる。
「……怒ってるさ。
だけど、それ以上に……会いたかったよ」
その言葉が自分の口から出た瞬間、
レオはほんのわずかに、眉を寄せた。
(……そうか、俺は──)
ずっと、本音に気づかないふりをしていただけだったのか。
いや──わかっていた。ずっと。
ただ、認めたくなかっただけだ。
カルミネの手が、ボトルからそっと離れる。
その手の指先が、わずかに震えた気がした。
(……救われた)
胸の奥で、何か硬いものが溶けた気がした。
カルミネは、シャンパンに視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「……あの朝、お前が目を覚ますまで、ベッドの端に座ってた」
レオがわずかに顔を上げる。
「引き金は引けなかった。……呼ばれるのを、待ってた」
微かに笑ったその顔は、どこか寂しそうだった。
「俺ってやつは、肝心なときに甘い」
そう言って、カルミネはグラスを差し出した。
レオは何も言わなかった。
ただ、静かにグラスを手に取った。
カルミネは、
「主席捜査官、昇進おめでとう」とひとこと告げる。
「……お前が祝ってくれるとはな」
この数か月、何も起きなかった。
自分の名も、カルロの名も、どの報道にも上がらなかった。
DIAの捜査線上にも、自分の影は存在しなかった。
ふと、あの夜の言葉が胸の奥で蘇る。
(……お前の本当の姿を知っているのは、俺だけでいいんじゃないか?)
カルミネが、グラスを見つめたまま口を開く。
「当然だろ。お前の犠牲は……誰よりも知ってる」
レオは小さく笑う。
「……複雑な気分だな。マフィアに褒められる警官ってのも」
「俺は、誇ってるぜ」
そう言ってカルミネは
グラスを掲げる。
レオは無言でグラスを合わせた。
カチン――。
澄んだ音が、ふたりだけの夜に溶けた。
一口シャンパンを口に運び、カルミネはふと、視線を逸らしたまま呟いた。
「……バルベーラ。喉を裂いたのは、俺だ」
「……あの時、止めたのに」
「けど……お前が、残りを片付けた」
「仕方なかった」
「だろうな」
ふたりはわずかに微笑みあう。
裏も表も超えた、確かな共犯の笑み。
シャンパンの泡が、グラスの中で静かに消えていった。
⸻
ふたりのグラスが、静かに触れ合ったあと。
レオはそのまま、グラスを片手にソファへと向かい、ゆっくりと腰を下ろした。
背もたれに体を預けるでもなく、ただ静かに──隣を空けて。
すぐに手を伸ばし、そっとカルミネの手首に触れた。
──ここにいていい、というように。
カルミネは一瞬、戸惑う。
けれど、静かに頷くようにして、その隣に身を沈めた。
わずかに滲む安堵。
けれど、それ以上の感情は、まだ奥に隠されている。
その穏やかな眼差しが、
ただ、そこにいるカルミネを否定しなかった。
レオはジャケットを脱ぎ、ソファの背に無造作に掛けた。
そのポケットから、古びた銀のライターが、コトリと小さな音を立てて落ちる。
カルミネは、拾い上げるふりをして、そっと掌に収めた。
その瞬間――心の奥が、わずかに疼いた。
(……こんなものでも。
お前に触れていられるなら)
たった一瞬の、わがまま。
たったひとつの、欲。
そして、
それだけで生きていける気がした。
レオは気づかず、ふとグラスを傾けながら、呟いた。
「……そういえば、どうやってここがわかった?」
カルミネは、ふっと微笑む。
「どうって、ずっと見ていた」
カルミネは軽く肩をすくめた。その瞳は、わずかに笑みを含んでいるようにも見えた。
「……ずっと……?」
レオの眉がわずかに動く。
「正確には、火曜と金曜」
カルミネは淡々と答える。
「お前が帰ってくると、廊下に足音が響く。階段を踏む癖は相変わらずだ。三階の踊り場で、必ず一拍ためる」
その瞬間、レオはふと息を呑んだ。
「……お前、ストーカーか?」
カルミネは小さく笑い、グラスを揺らす。
「いや、“ターゲットを逃がさない”が基本だ」
「……俺がターゲットかよ」
今度はレオが鼻で笑う。
カルミネはふと目を細め、レオの視線を正面から受け止めた。
「お前以上に、見逃せない相手はいない」
その言葉が、妙に真っ直ぐで、レオは一瞬だけ言葉を失った。
「……本当に、お前ってやつは……」
その声には、呆れと僅かな照れが混じっていた。
レオは、グラスを置き、ふとカルミネの顔を見つめた。
「……会えて、よかったよ」
その言葉が、思わず口をついて出た。
カルミネは、一瞬だけ目を伏せたが、すぐにまた視線を戻す。
「……そうか」
短く返されたその一言が、胸の奥にじんと沁みた。
ふと、レオの手が動いた。
そっと、カルミネの手に触れる。
ソファに並んで腰を下ろしたまま、二人は長い沈黙を分かち合っていた。
グラスの泡は消え、時計の針だけが確かに時を刻んでいる。
寄り添うだけで、言葉はいらなかった。
その静けさは、これまでにない安らぎだった。
やがて、カルミネが小さく息を吐く。
「……戻るよ。エリオが下で痺れ切らしてるだろうから」
現実を思い出すような声だった。
レオもゆっくり立ち上がり、玄関へと共に歩く。
「次は……護身用くらい持ってこい」
呆れたように吐き出す声に、カルミネはわずかに口角を上げた。
「気づいてたのか」
「最初からな」
ほんの短いやり取りのあと、
カルミネはドアノブに手をかけた。
その背に、低い声が届く。
「……カルミネ」
呼び止められたカルミネが振り返ると、
レオは一歩近づき、その手をそっと取った。
指先に触れる鼓動。
驚くほど熱を帯びていて、二人の沈黙が重なる。
「……触れていいか?」
カルミネは、わずかに息を呑んだ。
そして、低くかすれた声で答える。
「……いちいち許可はいらない」
一拍おいて、ふと目を伏せた。
「……お前に救われた命だ。
お前に──くれてやるよ」
レオは、言葉を失ったまま、
そっとその肩に手を置いた。
次の瞬間、静かに抱き寄せる。
近づいた瞬間、
カルミネの髪が頬に触れ、微かに柑橘と煙の匂いがした。
その匂いが、胸の奥の記憶を静かに掻き立てる。
息が触れるほどの距離で、互いの呼吸がゆっくりと重なった。
服越しに感じる体温が、
どこか脆くて、切ないほど確かだった。
その奥に、かつての傷があることをレオは知っている。
だからこそ、何も言わず、
まるで痛みごと包み込むように、腕の力を少しだけ強めた。
カルミネの肩がわずかに震え、
息が頬をかすめる。
それだけで十分だった。
怒りも疑いも、その温もりの中で静かに遠のいていく。
胸の奥で、カルミネの鼓動が自分のものと混ざり合っていく。
──そのとき、ふたりのあいだに僅かに残っていた境界が、音もなく溶けた気がした。
永遠のような一瞬が過ぎ、カルミネはゆっくりと離れる。
何も言わず、ただその背を向ける。
ドアが静かに開かれ、夜の気配が差し込む。
「……じゃあな」
短く残して、カルミネは出ていった。
閉まる音が、静まり返った部屋に響く。
レオはその場に立ち尽くし、しばらく動けなかった。
ふと、カーテンの隙間から外を見やる。
街灯の光が滲む通りを、黒い車がゆっくりと走り去っていく。
運転席の横顔は見えない。
後部座席の男は、一度も振り返らなかった。
(……ああ、行くんだな)
胸の奥で、熱いものが確かに疼いていた。
だが、それを言葉にすることはなかった。
──そして、窓の外には、かすかな光が滲み始めていた。
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