番外編|命のカプレーゼ

ナポリの昼下がり。

カルミネは白ワインのグラスを傾け、窓の外に目をやった。ミネラルの余韻が口の中にふわりと残る。


向かいのテーブルでは、エリオがメモ帳を片手にパスタをかき込んでいた。

ようやく一息つけるかと思っていたそのとき。



「エリオ、出かけるぞ。305だ。」


フォークの手が止まる。

エリオは無意識に、ほんの一拍、目を閉じた。


確かに、その数字は、もう聞き飽きるほど耳にしていた。


レオナルド・フィオーレのローマの部屋番号だ。


この数ヶ月、火曜日と金曜日は完全に潰されていた。

ナポリからローマまで、片道二時間半。

朝の出勤を尾行。帰宅時間の監視。最寄りのカフェのレシート回収。

運転、録音、記録、記録、記録。


「朝食はいつもあの店のタルトか」

「……エリオ、お前も今度、食べてみろ」



(そんな気遣いいらんわ)と、心の中で何度吐いたことか。


「今日はいつもより足音が重いな」

「疲れてるのかもしれないな」


(もはや盗聴というより観察日記だ)


「……あ、髪切ってるな」


(ああもう……)

もはや呆れるを通り越していた。



「……なあ、これ火曜でも金曜でもないよな?」

「……だよな?」


一拍おいて、カルミネはぽつりと落とす。


「月曜日だ」 



口には出さない。

ただ、重いため息ひとつだけついて、車のキーを手に取った。


フルコースどころか、セコンドすら届かなかった昼休みが、音を立てて崩れていく。


 

──そうして立ち上がろうとした瞬間だった。


「今日は……会いたい」


ぽつりと落ちたそのひと言に、エリオの思考が止まる。


(……は?)


振り返ると、カルミネはすでにコートを手にしていた。

まるで、最初から決めていたかのような動きで。

 

「準備しろ。明け方までには戻る」



「いやいやいやいや」


エリオは本気で動揺していた。


「それはもはや、ただの侵──」


「知ってる。」


カルミネは淡々と応じる。


「俺にとっては、いつもどおりだ。……お前にはちょっと付き合ってもらう」


エリオは言葉を失いながら、わずかに天を仰いだ。

月曜の昼下がり、ワインすら途中。



──



車窓を流れる景色に目をやりながら、カルミネは過去の残像に引き戻されていた。



(……船が遠ざかる)


ナポリの港が、静かに視界の端から消えていく。

置いてきたのは、あいつの背中。あの、もう二度と向けられない眼差し。


──それでよかった。

そう、思おうとしていた。


(……はずだった)


何度も振り払った。

忘れようとした。

それでも想いは、日に日に濃くなっていくばかりだった。

喉の奥に引っかかり、苦い後味だけが残る。


気づけば、心が追っていた。

記憶にすがり、些細な痕跡を拾い集める日々。


──そして、崩れはじめた。

境界が、静かに、だが確実に。



ローマ、夜十時過ぎ。

住宅街の一角に、黒のセダンが音もなく停まった。


前に座るエリオがふとバックミラーを覗くと、後部で静かに身を起こす気配があった。


カルミネ・ロッソは無言でジャケットの内ポケットに手を入れる。


黒革のホルスターに収められたベレッタ。

幾度となく命を奪い、幾度となく自分を守ってきた、戦友のような一丁。

そして、あの夜──バルベーラの喉を裂いた、細身のスイス製ナイフ。


それらをまとめて、前方に差し出す。


「預かれ」


エリオの眉がわずかに動く。

バックミラー越しに視線が合った。


「……本気か?」


カルミネは短く頷き、低く呟いた。


「……使わない」


沈黙の中、エリオは黙ってそれを受け取る。

ベレッタの重さ、ナイフの冷たさ。

どちらも、長年見てきた“カルミネ・ロッソ”の象徴のようだった。


ドアが静かに開き、冷たい夜気が車内に差し込む。



「……明け方までには戻る」

自分でも、どこかで苦笑していた。

撃たれなければ。あるいは、拒絶されてすぐ戻る羽目にならなければ──の話だ。


カルミネの言葉とともに、黒い影が闇の中に溶けていった。


エリオは、言葉もなく──ハンドルに手をかけたまま、ただじっとその背を見送った。



足音を殺してエントランス前に立ったカルミネは、

何も言わず、数段の石畳を上がる。



オートロックの呼び出しボタンには目もくれず、

裏手の非常階段からスムーズに屋内へと滑り込んだ。


三階。305号室の前。


ドアの前に立ち、カルミネは静かに鍵穴を見下ろした。


ノブの形、鍵穴の深さ、枠の微かな歪み。

見ただけで、どんな鍵が使われているかは分かった。


(……悪くない。だが、甘い)


ポケットから細いピックを一本だけ取り出す。

ゆっくりと差し込み、手首を回す。


カチ、カチリ。


閉ざされたドアが、まるで「ようやく来たか」と囁いたかのように静かに開いた。


誰にも気づかれないまま、

カルミネ・ロッソは、

愛しい男の部屋へと足を踏み入れる。



Salonのボトルを片手に、カルミネは静かに冷蔵庫の前に立った。

そのラベルは、黒と金。

孤高の名を持つシャンパーニュ。

今夜、自分が命を懸けて持ってきた一本だった。


“昇進祝い”──

言葉にすれば滑稽すぎて笑える。

だが、その手つきにだけは、微かな祈りが宿っていた。


冷蔵庫のドアを開ける。

扉が小さく唸りを上げ、庫内の白い光がカルミネの顔を照らす。


整然と並んだペットボトルと、小分けにされたプロテイン。

無機質なラベルのタッパー。

そして、奥。


トマトのネットがあった。

潰れかけたひとつから、汁が滲んで皿を濡らしている。


カルミネは眉を寄せた。


(……嫌いなら、買うなよ)


Salonをゆっくりと庫内の一段目に滑り込ませる。

扉を静かに閉めると、自分の姿がうっすら反射した。


(……これで準備は済んだ)


彼は振り返る。

室内の静けさはそのままに──

今、初めて“レオナルド・フィオーレの私生活”へと足を踏み入れる。


キッチンの椅子に、カーディガンが無造作にかけられていた。

きっと、帰宅してすぐの流れで置かれたのだろう。

袖口が少しめくれ、背もたれのカーブに沿って生地が垂れている。


何の意図もなかった。

ただ、カルミネは自然とその袖に手を伸ばしていた。

指先に触れた布地から、ふっと香りが立ちのぼる。


──シガー、エスプレッソ、そして、レオ。


キッチンカウンターの端。

皿の上に、小さなタルトが置かれていた。

ラップが緩くかけられ、フォークが中途半端に突き刺さったまま。


時間に置き去りにされた、それはまるで彼の断片だった。


それを見た瞬間、カルミネはふっと目を細めた。

息をつくように、小さく笑う。


「……本当に、甘党なんだな」


声に出した自分が少し恥ずかしくて、すぐに真顔に戻った。

けれどその一瞬だけ、胸の奥がほんの少し、あたたかく緩んだ。



カルミネは黙って歩み寄ると、皿の前に立ち、

フォークを手に取った。


一口だけ、すくう。


──甘い。


信じられないほど、甘かった。

舌の奥に、鈍く痺れるような残滓が広がる。



その瞬間だった。

甘さの余韻の中に、ありえないはずの光景がふわりと立ち上がる。まるで、その朝が目の前で始まったかのように。



目覚ましの音に眉をひそめて、無言でシャワーを浴びる。

濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら、キッチンへ。

カプチーノを片手に、タルトを齧り、

そのままシャツに腕を通す。


静かな部屋のなかで、ネクタイを締めたその瞬間、

世界が切り替わる。

完璧な正義の男が、そこに現れる。


けれど──カルミネの目には、

ネクタイを締める直前、一瞬だけ垣間見える“素の顔”が残っていた。


(……そんな顔、誰にも見せるなよ)


胸の奥に、妙な熱が宿る。

甘さと、嫉妬にも似た何かと、言いようのない感情が、じわじわと染み込んでいく。



ゆっくりとフォークを戻す。

ラップをかけ直し、何もなかったように皿を元の位置へ戻す。



そして、グラスをふたつ、静かに並べる。


冷蔵庫をもう一度開ける。

取り出そうとしたのはSalonだったが──


ふと、隣に置かれたトマトのネットに目が留まった。

潰れかけたひとつを、静かに手に取る。

皿に染みた汁が、指先をかすかに濡らす。



そのトマトを片手に、カルミネはSalonを持ち上げた。


Salonは祝福のために。トマトは、言い訳のために。


ボトルの表面には、うっすらと水滴が浮かんでいる。

滑らぬよう、指先に力を込めて握り直す。


ラベルを前に向けたまま、テーブルの中央に置く。


それだけ。


そのとき。




──カツン。


廊下の奥から、足音が響いた。


(……来た)


火曜と金曜に聞き慣れた音。

けれど今夜だけは、耳が、皮膚が、全神経がその接近を拒絶した。


──カチャ。


鍵が回る。


──カチリ。


安全装置が外れる。


その音を、カルミネの全身が知っていた。


(構えた。撃てる状態だ)


心臓が、ひと跳ねした。

指先に血が巡らない。視界の端が、じわじわと狭まっていく。

喉が焼けつくように乾いて、ただ一度、呼吸を飲み込んだ。


次の瞬間に、自分の身体に銃弾が食い込んでいる可能性がある。

いや、それどころか、この場所ごと撃ち抜かれてもおかしくない。

レオナルド・フィオーレは、そういう男だ。


(……撃たれる)


反射的に、腰へ手がいく。

だが、そこに何もない。

銃もナイフも、今日の自分にはない。


(……俺が死んだら、エリオは? ファミリーは?)

(目指してきたものは? 守るべきものは?)



わかっている。

けれど、それでも動けなかった。


身体が動くのを待っているのに、足が床に縫いとめられている。

このまま真正面で、ただ待っている。


膝がわずかに震えた。

胸の奥が、ひりつくように痛む。


動けば、避けられる。跳ねて、背後のカウンターへ。

死角はすでに計算済みだ。

逃げられる──はずだ。


(……怖い)


息をするのもやっとだった。

何十年と殺しを経験してきた身体が、今はただ震えている。

この一瞬が、どれほど長いか。


──足音が、部屋に入る。

──床がわずかに軋む。



(……会いたい)


その一心でここに来たのだ。

ただの一目。たったそれだけのために。

レオの真正面に立つと、決めていた。


カルミネは、ゆっくりとトマトを持ち直す。

濡れた汁が、指をつたう。


濡れたトマトを持つ指先が、かすかに震えていた。

けれど、それを隠すことはしなかった。

そして、真正面を向いた。


目がレオの姿をとらえた。


(ああ、俺は──)


自分に鋭い視線で銃口を向ける、

強く、美しく、そして……どうしようもなく、愛しい男がその先にいる。


たった一歩で、自分の命が消える位置にいる。


唇が渇いていた。声を出すには、あまりにも重かった。

それでも、言葉を選んだ。


「……よぉ。遅かったな」



──銃口は、まだ自分を狙っている。


必死に震える声を抑え、続けた。


「冷蔵庫にあったトマト、傷みそうだったからさ」

「カプレーゼでも作るかと思って」



それは、命を張った軽口だった。

だが、笑えるような余裕はどこにもなかった。

心臓の鼓動が、自分の耳の中で爆音のように鳴っていた。


見破ろうとしている。

隠した武器がないか、嘘がないか、敵かどうか。


緊張が、カルミネの皮膚をひりつかせる。

喉の奥が焼けつくように乾いた。


だが次の瞬間。

レオの指が、わずかに緩んだ。

銃口が、ゆっくりと──ほんの少しだけ下がった。


(……下ろす)


空気が変わった。

自分を貫いていたあの視線が、ふっと重さを失った。


“撃たれない”と確信できたわけじゃない。

けれど、その一瞬の“信頼の揺らぎ”に、カルミネの胸が微かに波打つ。


すとん、と音を立てるように、緊張がひとつ抜けた。



「……俺、トマト嫌いなんだよ」


その一言に、カルミネは息を吐いた。

握るトマトはまだ冷たく、けれど確かに“生き延びた命”の重みを宿していた。

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