第十ニ章|夜中の告白 ― 間違いのその先 ―
──あの朝から、数か月が過ぎた。
夏の熱が遠い記憶になり、街には冬の気配が漂い始めている。
港を出た日から、捜査は止まらなかった。
監査と事情聴取は形だけで終わり、現場は結果だけを見た。
そして――レオナルド・フィオーレは、主席捜査官になっていた。
その肩書きが、沈黙の上にあることを、誰も知らない。
バルベーラ殺害事件を機に、彼は確実に歩を進めた。
混乱の中でも冷静な判断を貫き、
バルベーラ・ファミリーの残党と資金網を徹底的に洗い出し、壊滅させた。
その功績により、DIA(反マフィア捜査局)内でも確固たる地位を築く。
国際案件を直接指揮できる“主席捜査官”に昇格し、政府高官との会議にも同席する立場となった。
今夜は、その昇進を祝う集まりだ。
馴染みのバーには、同僚たちが顔をそろえ、グラスが次々に交わされている。
「フィオーレさん、本当に伝説っすよ!」
「マジで尊敬してます!」
「次は結婚っすね〜! 早く落ち着いてくださいよ〜!」
口々に冷やかす部下たちに、レオは苦笑しながらウイスキーのグラスを傾けた。
「……お前らがうるさすぎて、誰も寄ってこねぇよ」
「主席捜査官なんて肩書き、遠い存在っす!」
「もう俺ら、ついていけませんね〜」
「やめろ、まだ現場だ」
軽口の応酬に、笑いが広がる。
(……こんな夜も、悪くない)
そんなとき、部下の一人が笑いながら言った。
「レオさん、最後のジェラートいかないんすか?」
──ジェラート。
その一言で、手にしたグラスがふと止まる。
(……甘っ)
聞こえてきたのは、自分の記憶の中の声。
あの日の午後、差し出したスプーン、ためらいがちに口を開いた男。
ほんの一口で顔をしかめて、ぽつりとそう漏らした。
ほんの一口だった。けれど──あれは、ちゃんと味わっていた。
(……なにやってんだ、俺)
胸の奥に、かすかな痛み。
それを押し込むように、グラスの残りを流し込む。
「今日は……いい」
誰にともなく、短くそう呟いた。
氷の音だけが、やけに遠く響いていた。
もう終わったはずの夜の記憶。
隠そうとしても、なぜか鮮明に蘇る。
誰の目にも触れない場所にそっと遠ざけ、
存在ごと仕舞い込もうとしても──
それでも、思考の隙間に、あいつの残響が棲みついている。
交わるはずのなかった世界。
それでも、心が先に動いた。
想ってしまった時点で、もう、引き返せなかった。
──あれは、間違いだったのか。
……違う。守ったんだ。
…そう言い切れるだけの何かが、たしかに、あの夜にはあった。
忘れられないのは──
触れられた背に、ふっと力が抜けた瞬間だった。
周りが見るのは、仮面をかぶった“犯罪者”としてのカルミネ・ロッソ。
世間が語るのは、名を聞いただけで震える“怪物”。
でも──
自分は、見てしまった。
冷徹なマフィアのボスでも、慈善家カルロでもない。
そのどちらでもない、“本当のあの男”に触れたくなった。
あの夜、そう思った。
後ろめたさはある。
けれど、後悔はしていない。
氷が、グラスの底で音を立てた。
(……もう、戻ることなんてない)
そう自分に言い聞かせる。
だが、その感覚はどうしても消えてくれない。
むしろ、時間が経つほどに鮮明に蘇り、肌の内側に深く刻まれていくようだった。
「お先に失礼する。明日も仕事だからな」
レオは無造作にグラスを置き、立ち上がる。
部下たちの「お疲れ様です!」という声が背中に響くが、それはやけに遠く感じられた。
店を出ると、冷たい夜風が頬を撫で、少しだけ現実に引き戻される。
だが、その冷たささえ、どこか物足りない。
歩き出した足は、いつの間にか自宅へと向かっていた。
足音が路面に反響するたび、あの夜の熱が、僅かに胸を締め付ける。
巡る世界のどこにも、重なる理由なんてない。
(……戻るべきじゃない)
そう自分に言い聞かせながらも、心はどこか定まらない。
気がつけば、自宅マンションの前に立っていた。
ポケットから鍵を取り出しかけたそのとき――ふと、足が止まる。
カーテンの隙間から、微かな明かりが漏れている。
レオの表情が一瞬で引き締まった。
ジャケットの内側、ホルスターに指をかける。
用心深く、鍵を回す。
カチリ。
安全装置を外し、銃を構えながら静かにドアを開けた。
玄関からリビング、そしてキッチンへと続く動線を、神経を研ぎ澄ませながらゆっくりと進む。
殺気はない。だが、確かに──誰かが、いる。
安全装置を外したままのシグ・ザウエルを片手に、レオはキッチンの入り口に差しかかった。
静寂の中、小さな照明だけが灯っていた。
テーブルの上には、冷えたシャンパンとふたつのグラス。
そのラベルには、「Salon」の文字が、かすかに光を反射している。
(……なんだ?)
次の瞬間。
冷蔵庫の扉が音を立てて閉まる。
──そして、そこには、ひとりの男がいた。
艶やかな黒髪。そして、暗がりでもわかる、あの冷たく深い──けれど一度見てしまえば、二度と忘れられない瞳。
一瞬で、レオの全身が硬直した。
理屈じゃない。見た瞬間にわかった。カルミネ・ロッソ──隠そうと踠いても消えてくれなかった男が、そこにいた。
「よぉ、遅かったな」
カルミネ・ロッソはそう言って、トマトを軽く掲げた。
「冷蔵庫にあったトマト、傷みそうだったからさ」
「……カプレーゼでも作るかと思って」
レオの視線が、腰元から肩口までを素早くなぞる。
隠し持った影は……ない。丸腰だった。
だが──それでも、すぐには銃を下ろせなかった。
(なぜ、ここにいる)
(どうやって入った。何をしに来た)
トマトひとつ手にして、まるで“ただの訪問者”のように立っている。
だがその無防備さが、逆に不気味だった。
撃てない理由はなかった。
目の前に立っているのは──いまなお、裏社会を動かし、躊躇いなく鮮やかに喉を切り裂く男だ。
この部屋にどう入ったかも不明で、武器を隠していない保証もない。
捜査官としてなら、迷う理由はなかった。
──それでも。
引き金にかけた指に、微かに迷いが走った。
思考よりも先に、力が抜けていた。
レオは自分の指がわずかに緩んだことに、ほんの一拍遅れて気づいた。
見た瞬間──ほんの一瞬、撃てないと決めてしまった自分がいた。
理屈の外に、心が先に動いた。
(……なんなんだ、これは)
戸惑いと共に、カルミネを見据える。
目の前の男は、真正面に立ち、トマトひとつを手にしていた。
包丁も銃も持たず、逃げも隠れもせず。
そして──
トマトを持つ指先が、わずかに震えていた。
それを、レオは見逃さなかった。
その姿に、レオの警戒心が一拍遅れて、すとんと落ちた。
レオは、ゆっくりと銃を下ろした。
そして、代わりに口をついて出たのは──
「……俺、トマト嫌いなんだよ」
カルミネは、ふっと息を吸い──
わずかに、声を詰まらせながら返す。
「……なら、買うなよ」
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