第十一章|夜明けの裏切り ― 手のひらの余熱
レオは、穏やかな目覚めを迎えていた。
昨夜の肌の感触が、まだ皮膚に残っている――そう錯覚するほどに。
けれど、今はもう何もない。
ぼんやりと体を起こしかけて、違和感に気づく。
背中──両手首が動かない。引かれるような感触。
寝返りを打とうとするが、腕がシャツの袖で背中側に縛られていた。
(……は?)
昨夜、自分で脱いだシャツ。その袖が、しっかりと結ばれている。
体をひねるが、うまく解けない。
そのとき、視界の端に何かが動いた。
カチリ、と安全装置の外れる音。
目を向けると、そこに拳銃を構えたカルミネが立っていた。
完璧な顔立ち。冷えた瞳。引き金にかけられた指。
昨夜、心まで通わせたはずの男とは、まるで別人のようだった。
「……カルミネ」
レオが低く呼ぶ。
だがカルミネは、銃口を向けたまま動かない。
「――これが、俺たちの現実だ」
その声にだけ、わずかに痛みが滲んでいた。
それでも、引き金は引かれなかった。
カルミネは部屋を出るために背を向ける。
レオの横を通りすぎるとき、一瞬だけ視線が交わった。
その瞳に、言葉にならない“何か”が揺れた。
けれど次の瞬間には、もう何の感情も映していなかった。
扉が開く。その背に向かって、レオは思わず叫んだ。
「――あの男に、近づくな!!」
カルミネの足が、わずかに止まる。
だが、振り返らずに、そのまま扉の向こうへと姿を消した。
扉が閉まる音を背に、カルミネの中から一切の“温度”が消えた。
情は、切った。
ためらいも、残してこなかった。
そう決めていた。
(……あいつが追いつく前に、やる)
頭の中にあるのは、それだけだった。
足取りは正確。だが、いつになく速い。
エレベーターではなく階段を選んだのも、迷いのなさゆえだった。
(あいつが来たら、間に合わない)
珍しく、焦っていた。
息が浅い。肺の奥まで空気が入らない。
この数分がすべてを分ける。
この目的をやりきることでしか──
自分の選んだ「今」を、正当化できない気がした。
足音を殺しながらも、
鼓動の速さだけが、制御できなかった。
──そして、扉の向こうで。
扉が閉まる音だけが、レオの耳に残った。
(……クソっ)
奥歯を噛み締める。足を床に下ろし、背中の縛りを無理やり解いた。
起き上がり、部屋を見回す。
服はなかった。だが、クローゼットの扉を開けると、そこに丁寧に吊されたスラックスとジャケットがあった。
整然と戻されている衣服。あの男の手で、手際よく戻されたのだとすぐに分かった。
(ふざけんな……どこまで用意周到なんだよ)
レオは素早く着替え、ジャケットの内ポケットから小型の無線端末を取り出した。
まだ生きている。
ベッドの上に散らばる感触も記憶も、すべて振り切るように――
レオは、部屋を飛び出した。
廊下の外には、すでに騒がしい気配が満ちていた。
船は夜明けとともに港に着き、今まさに乗客たちが一斉に下船を始めていた。
アナウンス、足音、ざわめき――そのすべてを突き抜け、レオは駆ける。
スイートルームの位置。
バルベーラの宿泊階。
事前の監視計画――
全ての情報が、瞬時に脳内で繋がった。
(ここだ。奴の部屋に、何かが起きた)
バルベーラのスイートルームまで、最短距離で駆け上がる。
ドアの隙間から、異臭。
ドアを蹴破るように押し開けた瞬間、目に飛び込んできたのは――
血まみれの男。ルチアーノ・バルベーラ。
喉元から深く裂かれ、血の海に沈んでいる。
レオは無言で現場を確認し、即座に無線に手を伸ばした。
「こちらフィオーレ。至急、医療班と検視を。犯人不明、負傷者一名。死亡確認急ぐ」
その声は冷静だった。まるで、何もなかったかのように。
――けれど、胸の奥では叫びが渦巻いていた。
(……まさか、お前が)
昨夜の温もり。名を呼んだ声。
(……本当に、お前がやったのか)
そのときだった。
廊下の奥、出口へと続く混雑の中――
ふと、見覚えのある背中が人波に紛れていくのを見た。
(カルミネ!?)
レオはすぐに飛び出し、その背を追いかけた。
「ロッソ!!」
声に応えるように、一瞬だけその背が振り返る。
だがすぐに顔を背け、さらに人混みへと紛れていく。
レオがさらに追おうとした、そのとき――
「フィオーレ!!」
黒服の男たちが、船に乗り込んできた。
DIAの仲間たち――だ。
「状況は!?」
レオは呼吸を整え、即座に任務へと切り替える。
「第一発見だ。現場封鎖、出入口監視。乗客の退避ルート確保を優先しろ」
指示は的確だった。誰も、レオを責める者はいない。
むしろ、その即応力は称賛されるべきものだった。
「さすがだな、フィオーレ」
「よく動けるな、この混乱の中で」
だが、レオだけは知っていた。
自分の胸の奥が、今どれほど荒れ狂っているか。
(カルミネ――)
(……あの背を、止められなかった)
(俺は──信じすぎた)
現場検証が始まる。
だが、監視カメラの映像は不自然に編集されていた。
肝心な時間だけ、綺麗に“抜かれている”。
「……映ってねぇのか?」
「いえ、残っていますが――一部だけ“消されている”」
「誰が?」
「わかりません。ただ、これは素人の仕事じゃない。プロの手口です」
仲間たちが顔を見合わせる。
「まさか、船内に……裏の人間が潜んでたのか?」
「いや、潜んでいた“痕跡すら”ない。姿を見せず、跡も残さず、仕事だけ終わってる。完璧な仕事だ。……まるで、最初から“存在しなかった”みたいだ」
レオは、無言で海を見つめていた。
風が吹く。血の匂いを、静かに散らしながら。
――そして。
まるで何もなかったように。
カルミネ・ロッソは、再び闇へと溶けた。
レオの心にも、静かに、消えない傷跡を残して。
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