第十章|「触れてみたい」—眠れぬ夜、ふたりの境界線—
夜が更け、船内は深い海のような静けさに沈んでいた。
窓の外には、星々が水面に浮かぶ灯のように瞬いている。
不自然なほど広いキングサイズのベッド。
それなのに、互いの距離は妙に近かった。
(……なんでだ)
レオは天井を見つめたまま、内心で頭を抱える。
もっと離れて眠れるはずだ。
それなのに――呼吸が重なり合うほどの距離。
シーツ越しに体温さえ感じてしまいそうな近さだった。
──隣で眠っているカルミネは、何も言わない。
けれど、ほんの少しずつこちらに近づいてきているのを、レオは気づいていなかった。
そのとき、肩がふいに触れた。
レオの身体がビクッと震える。
「……眠れないのか?」
暗闇の中、カルミネの低い声が落ちた。
「……ああ」
乾いた声で返す。
カルミネは微かに笑い、その音が闇の底で心に染み入るようだった。
「……俺もだ」
その言葉に、レオの喉が微かに動く。
その静かな囁きが、妙に胸の奥に触れた。
これまでの敵対関係を考えれば、ありえない距離感だった。
(……なぜ、お前がそこにいる)
思わず横目でカルミネの顔を窺う。
暗闇に浮かぶその横顔は、静かで、どこか儚げで――それでいて、圧倒的な存在感を放っていた。
ふとカルミネが顔をこちらに向けた。
その瞳が、わずかに揺らめく。
まるで、自分と同じようにこの距離に戸惑っているかのように。
「……明日で、終わりだな」
カルミネが静かに口を開いた。
その声は、闇に溶けるように低く、穏やかだった。
「……ああ」
レオは、わずかに口元を歪めた。
「いい旅だったか?」
その問いに、レオは一瞬だけ迷った。
だが、結局、口をついて出たのはシンプルな言葉。
「……悪くない」
カルミネがかすかに笑う。
「そうか……」
その呟きは、どこか遠くを見つめるようだった。
すぐに視線を戻し、瞳に試すような光が宿る。
「……明日には、俺をカルミネ・ロッソとして突き出すのか?」
試すような声音。挑発ではなく、確かめるための一言。
静かな間が落ちた。
遠くで波の音がかすかに響く。
レオはその横顔を見つめながら、胸の奥で言葉にならない思いを噛み殺した。
(……俺は、なにを考えている)
正義とは法のもとにあるべきだ。
どんなに誰かを想っても、情で裁きを歪めてはいけない。
そのはずだった。
だが今――
目の前のこの男を“罪人”としてしか見られない自分の方が、
間違っているように思えた。
正義よりも、人の痛みの方が重く感じる。
(それでも――痛みに寄り添うことが、裏切りになるのか?)
それはDIAの捜査官としては、致命的な誤りだ。
けれど、一人の人間としては、ようやく“何か”に触れた気がした。
今はまだ、口にすべき時じゃない。
けれど――この先も、こいつの隣で見ていきたいと思ってしまった。
(……俺は、もう戻れないのかもしれない)
レオは息を呑み、そして低く返す。
「……お前の本当の姿を知っているのは、俺だけでいいんじゃないか?」
沈黙。カルミネの瞳に、微かな揺らぎが走る。
「……信用していいのか?」
低い声。今度は挑むような鋭さが混じる。
レオは迷いなく顔を寄せた。
「誓いのキスでもしてやろうか」
そう言って、そっと額に唇を触れさせる。
誓い――ただそれだけの、静かな仕草。
カルミネはわずかに目を細め、そして口元を歪めた。
「……なんだそれは」
レオは肩をすくめ、わずかに笑う。
「昨日のお返しだ」
――その瞬間、カルミネの瞳が大きく見開かれた。
「……!!!」
「お前……起きてたのか……」
笑みが消え、羞恥と驚愕が入り混じった目が怒りに染まる。
レオは気まずげに言葉を探した。
「あ、……」
カルミネが低く笑う。
「……じゃあ、遠慮はいらないな」
その笑いの奥に、怒りと、ほんの微かな戸惑いが混ざっていた。
次の瞬間、唇を奪われる。
荒々しく、怒りの熱を帯びた口づけ。
それは誓いでも甘さでもなく、どこか痛みを孕んでいた。
レオは一瞬、息を呑む。
驚きで体が固まる。
だが、不思議と嫌悪はなかった。
その衝動の奥に、言葉にならない痛みのような熱を感じてしまったからだ。
(……拒む理由なんて、どこにもない)
結局レオは、ただ受け止めるしかなかった。
心臓の音だけが、遠くで鳴り響いている。
一度唇を離し、カルミネはゆっくりと体を起こした。
逆にレオを覗き込む形になり、月明かりに照らされた口元がいたずらに歪む。
「……キスだけで済むと思うか?」
「なっ……!」
レオの脳が真っ白になる。
喉が詰まり、否定も肯定もできず、ただ顔だけが赤く燃えていく。
カルミネはその狼狽を愉しむように見下ろし、肩をすくめた。
「……冗談だ」
そう囁いて再び横になり、今度は静かに身体をレオへと預ける。
素肌と素肌が触れ合い、互いの温もりがそのまま伝わってきた。
「……いい夜だ」
月明かりの下、かすかな囁きが落ちる。
静かな呼吸が重なり、カルミネは眠りについた。
残された体温と鼓動の熱だけが、レオを夜明けまで離さなかった。
――ふたりの夜が、もう戻れない始まりになることを知らぬままに。
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