第九章|背に眠る傷

波が、一定のリズムで船体を打っていた。

ごく低く、腹の底に伝わるような振動。

遠くで、海鳥の短い鳴き声が風にちぎれて消える。


朝だった。


淡い陽射しがカーテンの隙間から差し込み、ベッドの端に薄く影を落としていた。


レオナルド・フィオーレは、ゆっくりとまぶたを開けた。

まだ空気は冷たく、朝の静けさが部屋の中に残っていた。


しばらく天井を見つめたまま、呼吸を整える。

そしてふと――

昨夜の記憶が微かに蘇る。


── 頬に、唇が触れた感覚。


それは夢のように一瞬で、けれど妙に現実的だった。


(……あれは、幻じゃなかった)


自分が起きていたことを、カルミネはまだ

しらない。

だからこそ、あのキスには偽りがなかったのだと、思ってしまう。


無意識に、頬に触れてみる。

そこにはもう何も残っていなかった。

けれど、胸の奥に落ちたあの衝動だけは、まだ消えずにいた。


隣に目をやる。


カルミネは、まだ眠っていた。

上半身は裸のまま、シーツを緩く腰にかけている。

背を向け、静かな呼吸を繰り返していた。


カルミネの背は、しなやかで、どこか儚い美しさを湛えていた。


その姿が、あまりにも無防備で、言葉を失った。

滑らかな肩甲骨、朝の光を受けて淡く光る肌。

それは“美しい”というより、痛々しいほどの静けさを纏っていた。


(……息が詰まる)


朝の光の下で、こんなにも“人間らしい”背中を見たのは、初めてだった。

思わず視線を逸らしかけた――そのときだった。


彼の視線に、ひとつの傷跡が飛び込んできた。

背の中心に、鋭利な刃物で裂かれたような痕。

その周囲にも、銃創、火傷、焼け焦げた痕、古傷がいくつも刻まれていた。


それらは、単なる傷ではなかった。

暴力に晒され、所有され、征服され──“人間”ではなく、“欲望の対象”として刻まれた痕。


どれも古く癒えてはいるのに、肌の白さと、そこに刻まれた残酷さがあまりにも対照的だった。

まるで、“美しさ”の中に封じ込められた、“支配の痕跡”。


(……こんな、理不尽を──独りで、生き抜いてきたのか)


レオは、言葉を失った。


職務上、傷痕のある身体は何度も見てきた。

だが、それは“事件”という外側から見た痕跡であり、

ここまで静かな重さを宿した背中には、初めて出会った。


ただ一つ、確かに伝わってくるものがあった。

それは、孤独だった。


誰にも言えず、誰にも救われず、

それでも生き抜いてきた――

そんな静かな執念のようなものが、そこには刻まれていた。


胸の奥が痛くなった。


思わず、レオの指がシーツの上でわずかに動いた。


触れたい、と思った。

ただ、それだけだった。


この背に刻まれた孤独に、ほんの一瞬でも寄り添えるなら──


けれど、触れなかった。


彼が、その過去を誰かと分かち合いたいと思っているのか──それさえ、わからなかった。

下手に触れれば、それすら奪ってしまいそうだった。


代わりに、そっと視線を逸らす。

そして、深くひとつ、呼吸を吐いた。


カルミネはまだ、眠っている。

まるで何も知らない顔で。


その無防備さが、たまらなく哀しく、そして――

ほんの少しだけ、愛しく見えた。


レオは、ゆっくりとベッドを抜け、音を立てぬよう足を床に下ろした。


朝が来た。

昨夜の沈黙を、そのまま胸にしまいながら。


そして、ひとつだけ確かだった。


あの背に眠る傷を、

誰にも見せずにすむなら──

そのためだけに、俺が隣にいるのもいいと思った。



(……あの背中を、もう二度と誰にも傷つけさせたくない)


──


微かな気配で、カルミネは目を覚ました。


目を開けると、傍らには誰もいなかった。

シーツは温もりを残しながら、静かに沈んでいる。


ゆっくりと身体を起こす。

視線を横に向けると、ガラス越しのバルコニーに、ひとつの背中があった。


淡いブルーに灰を溶かしたようなリネンの裾を、風がかすかに揺らしている。

レオがその色を纏い、静かに海を見つめていた。


──他人が、部屋の中にいる。

それも、自分の正体を知る捜査官が。


それなのに。


(……俺は、警戒もせずに、眠っていた?)


そのときになって、カルミネは自分がシャツを着ていないことに気づいた。


あまりにも自然に、あまりにも無防備に脱いでいた自分に、思わず息を呑む。

まるで、ここが“敵の隣”であることを、身体のどこかが忘れていたようだった。


(……気を許していた? そんなはず……)


カルミネは、自分の思考の緩みを疑うように眉をひそめた。


(……まさか、こんなにも)


目覚めて最初に感じたのは、警戒ではなく、静けさだった。

それが、ひどく異質で、妙に怖かった。

昨夜、自分はシャツを脱ぎ、隣に入り、頬にキスまでした。

そのすべてを“当然のように”選んでことに、今さら気づいた。


(……俺は、いつから、こんな風に)


思考のどこかで、レオを“敵”ではなく、“隣にいて当然の存在”として認識し始めていたことに、ふいに気づかされる。

そして、その気づきこそが――一番の動揺だった。



バルコニーに立つレオが、ふと気配に気づいたように振り返った。


朝の陽を背に、静かに、穏やかに――微笑んだ。


その笑顔に、カルミネは一瞬だけ戸惑った。

敵意も、疑いもない。

ただ、同じ夜を越えた者としての、あまりにも自然な微笑み。


(……なんだ、それは)


その優しさに、どう反応すればいいのか分からなかった。


カルミネは目を逸らすでもなく、見返すでもなく、

ただほんのわずか、まぶたを伏せた。

それだけで、心がざわついた。


──


その後の一日は、不思議なほど静かだった。


ふたりは言葉少なに、船内を歩いた。

ちょっとしたショーや上映されていた映画にも足を止めた。

思いがけずレオが吹き出し、カルミネもつられて笑った。


それはまるで、普通の旅人同士のようだった。


肩が触れ、目が合い、そして逸らす。

そんなささやかなやりとりが、妙に心に残った。


誰かを欺く必要も、仮面を被る理由もなかった。


風が少し涼しくなってきた午後のカフェテラス。

レオは小さなジェラートのカップを手にしていた。

ホワイトチョコとレモンのダブル。ひと口食べて、思わず目を細める。


「……うまいな」


その表情を、カルミネは横目で捉えていた。


(甘党なのか……)


毎朝タルトばかりだった理由に、ようやく合点がいく。

なんでもない仕草なのに、妙に印象に残った。

そんなことを考えていた、そのときだった。


「ほら」


レオはスプーンでジェラートをすくい、まるで当然のようにカルミネの口元へ差し出した。


カルミネは一瞬、動きを止める。


(……え?)


悪びれも照れもなく、“美味しいものを分けたいだけ”の顔で待つレオ。

その無防備な善意が、逆に逃げ場をなくしてくる。


仕方なく――いや、半分くらいは自分でも理由が分からぬまま、

カルミネは静かに身を寄せ、口を開いた。


スプーンが唇に触れる。

冷たく甘いジェラートが舌の上で溶ける。


「……甘っ」


ぽつりと漏らすと、レオが満足げに笑った。

その笑顔は、素直すぎて、無防備すぎて──


カルミネは視線を逸らし、心の中でため息をひとつ落とす。


(……反則だろ)


ただの笑顔なのに、たったそれだけで、胸の奥に爪痕を残してくる。


「うまいだろ? こういうの、朝でも余裕」

「……お前の朝食、そもそもタルトだろ」

「ああ。でもこれはデザート枠だから」


くだらない理屈に、カルミネは返す言葉を持たなかった。


(……気を引き締めろ)


カルミネは、甲板へ吹き込む潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。

冷たい夕風でざわめきを押し沈めるように。

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