第八章|眠りの気配


シャワーの音が途切れ、静寂が部屋を満たす。

ドアが開き、湯気を割ってレオが現れた。腰には白いタオル一枚。濡れた髪を乱雑に拭きながら、無防備に歩み寄ってくる。


鍛え抜かれた肩、胸、腹筋のライン。

カルミネは視線を奪われ、完全に固まった。

グラスを持つ指に、思わず力がこもる。


レオはソファに腰を下ろし、ちらりと目をやるとふっと笑った。


「……そんなに見つめられると、照れるな」


カルミネの目が揺れる。表情が崩れかけるのを、ぎりぎりで堪えた。


「見てない」


「へえ。ずいぶんわかりやすい“目の逸らし方”だったけど」


タオルで首筋を拭うレオの動作が、なぜかやけに艶っぽく見えた。

いや、そう“見えてしまっている”ことが、カルミネをさらに追い詰める。


タオルで首筋を拭う仕草まで、やけに艶やかに映る。

──仕掛けたつもりが、逆に追い詰められている。


「……寝る」

短く言い捨て、カルミネはベッドに背を向けた。

だが、レオの笑みが焼きついて離れなかった。


静寂が部屋を包み、時間だけがゆっくりと過ぎていく。


深夜、

船は静かに地中海を滑っていた。

遠く波の音がかすかに響き、スイートルームの空気を薄く震わせている。


カルミネは、ふと目を覚ました。

時計は──午前二時。


隣には、レオが眠っていた。

横向きのまま、静かに呼吸を繰り返している。

その背中はやけに無防備で、いつもよりも小さく見えた。


(……無用心なやつだ)


カルミネはそっと身を起こし、ジャケットを羽織った。

ドアの前に立ち、もう一度だけ、レオに目をやる。


そのまま、静かに歩み寄る。

そして、眠る肩に指先でそっと触れた。


軽く、確かめるように。


レオの身体はびくりとも動かない。

その静けさを信じて、カルミネは何も言わず、部屋を出た。


──


船の通路を、カルミネは無音で歩いた。


目指すのは、バルベーラの部屋。

扉の位置、隣室との距離、警備の動線──すべてを確認する。


(……今ならやれる。扉の向こうにいるのは、バルベーラ)

ナポリの秩序を乱した報い。

縄張りを荒らした愚かさ。

ロッソに仇なす者への制裁。

それは当然の行いで、誰も俺を咎めはしない。


だが──フィオーレだけは違う。

あいつは捜査官だ。必ず気づき、必ず俺を捕まえる。

そうなれば、もう二度と“隣”には戻れない。


扉の前に立ち、気配を読む。

内部の空気は沈黙しており、周囲に目立つ影もない。

十分に静かで、十分に危険だった。


(……準備は、整いつつある)


けれど、予定になかった誤算がひとつある。


(お前だよ、フィオーレ)

指先が扉に触れる前に、カルミネは静かに拳を握りしめた。


──


カルミネが戻ってきたとき、スイートルームは静まり返っていた。


ドアを閉め、ジャケットを脱ぎ、

シャツのボタンを外しながら、ベッドに目をやる。


レオは、同じ姿勢のまま眠っていた。

背を向けて、深い眠りに落ちているようだった。


カルミネはシャツを脱いだ。

習慣どおり、無意識に。

気づけば、それだけのことすら、昨日まではできなかった。

その事実に、あとになって自分でも軽く驚くことになる。


そっとシーツをめくる。

上半身裸のまま、ベッドに滑り込む。


ふと、手のひらが疼いた。


(……まだ、残ってる)


昨日の夜。

あのとき、こいつがそっと握り返してくれた感触。

拒絶ではなく、否定でもなく、ただ静かに受け入れられたぬくもり。

それが、自分の中で今も脈打っていた。


カルミネはそっとシーツに身を沈め、

静かに背後から身体を寄せた。


触れる──

それは、これまで自分にとって、暴力か征服か、あるいは快楽の道具でしかなかった。


体温を“感じたい”などと、思ったことなど一度もなかった。


なのに──今、この男の肩に指先を伸ばすたびに、

自分の中の何かが、確かに震える。


(……この感情は、なんだ?)


わからなかった。

知らなかった。


けれど今、どうしても“この温度”をもう一度確かめたかった。


ためらいながら、そっと肩甲骨に額をあずけた。


それは、思考でも計算でもない。

ただ、もう一度だけ、確かめてみたかった。

あの温もりが、自分の錯覚ではなかったと。


密やかな、ほんのひとときの静寂。

言葉も理屈もいらなかった。

ただ、そこにいることだけで救われるような感覚だった。

 

(……温かい…)


目を閉じた。

だが眠れなかった。


ゆっくりと額を離し、肘をつくようにして身を起こす。

ベッドに腕をついたまま、そっとレオの顔を覗き込んだ。

無防備な横顔。それは、「誰にでも見せる表情」ではなかった。


少なくとも、自分にはそう思えた。


(……俺は、何をしている)


これまで、誰かの寝顔にこんな感情を抱く自分など想像すらできなかった。

出会ったときから、ただの捜査官じゃないとは感じていた。

理屈じゃない──そんな言い訳が通じる世界ではないことも、重々わかっていた。


(お前が“レオナルド・フィオーレ”だから、始末が悪い)


正義の象徴。

決して踏み込んではならない領域にいる男。


それでも、こうして触れたくなるのはなぜだ。

理性ではとっくに否定したはずの感情が、静かに、しかし確かに胸を焼いている。


(……やめておけ。触れたら、もう引き返せない)


ためらいが喉元で滞る。


それでも、カルミネはそっと、頬にキスを落とした。  

ほんのわずか、触れるか触れないかの、その境界で──。


それだけだった。

けれど、それ以上のすべてが、そこに込められていた。


──


レオは目を閉じたまま、わずかに息を吐く。


(…起きていたよ)


最初から気づいていた。だが動かなかった。

たが、今のカルミネは、誰かを殺しに行く空気じゃなかった。


錯覚かもしれない。

だが一緒に過ごすうちに、“目を逸らす必要がない”と感じた自分を誤魔化せなかった。


(俺は、お前が戻ってくると思ってた)


だから待った。そして、戻ってきた男が額を預け、頬に触れた。


正義の捜査官としては、誤った判断だったかもしれない。

だが、その夜、自分の中の“正しさ”が少しだけ変わっていたことに気づいていた。


(……やったな、お前)


危険の兆しは見逃さないつもりだった。

けれど──これは、想定外だった。


銃じゃなく、キス。

殺意じゃなく、温度。

……なんだ今のは。

心臓が跳ねた。


俺はプロだ。だから寝たふりを貫いた。

けれど──もしそうでなければ。

思わず両腕で受け止めてしまっていたかも知れない。


理性があっさり焦げ付くところだった。


レオは目を閉じたまま、わずかに唇をゆるめた。

今夜は、何も問わない。

ただ、黙って─受け止める。


……撃ち抜かれたのは、心の方だった。

もう、ただの任務ではなかった。


その静けさの中で、ふたりは同じシーツに身を沈めていた。

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