第七章|束の間の休息

デッキには、眩しい光と潮風が吹き抜けていた。

昨夜の静かな余韻が、まだ身体の奥に残っている気がする。


白シャツの袖を無造作にまくり、海を背に立つカルミネ。

風に髪を揺らしながら、遠い水平線を見つめるその横顔は、冷たい彫刻のように整っていた。──だが同時に、深い影を背負っているようでもあった。


(……彫刻みたいだ)

そう思った瞬間、喉が渇いた。


レオは思わず視線を逸らす。

まるで光に触れたら、影ごと抱え込むことになるような危うさを感じてしまうからだ。


人として感じてはいけないものに、心が揺れていくのがわかった。


(……なんだ、この男は)


ただの犯罪者として終わらせるには、あまりに危険で、あまりに眩しい存在。

その胸にある深い影が、レオの理性を静かに溶かしていく。



レオがカルミネの横顔に目を奪われていると、カルミネが呟いた。


「この感じ……世界の全部から解放された気がするな」


「……意外だな。お前も、そんなこと言うんだな」


「休暇だよ、捜査官」


レオはちらりとカルミネを見たが、すぐに視線を外した。

(……仮面、戻したな)


カルミネが肩をすくめたとき、レオの腕にさりげなく触れた。

その一瞬の距離に、レオの心臓が跳ねる。


(……近い)


軽いはずの接触なのに、心が静かに波立っていくのを止められなかった。

それを悟られまいと、レオはわざと視線を逸らした。



ふと、レオは周囲を見回した。


(……バルベーラは?)


視線が無意識に彼を探している。

だが――今のところ、その姿はどこにもなかった。


(……静かすぎる)


そんな警戒のさなかでも、隣にいるカルミネの存在感は薄れなかった。



そしてカルミネも、ふとレオを見た。


迷いと警戒を湛えた横顔。

なのに、目の奥には別の光が宿っている。


(……お前、そんな顔もするのか)


それが、妙に嬉しかった。

レオは警戒している。まだ迷っている。

けれどその一方で、確かに自分の隣にいることを選んでいる。


その事実が、カルミネの胸に、思わぬ痛みを残した。

(……昨夜の“あの感触”が、まだ残っている)

あの静かな夜。

握り返された手の感触は、いまも指先に沈んでいる。

だからこそ、今このままではいけないと、本能が告げていた。

一度、整え直さなければ――“仮面”を。



(……近い)


仮面の奥に隠したつもりの“何か”が、触れられそうな距離にある。

それに気づいた瞬間――

救われるよりも先に、仮面を剥がされるかもしれない恐怖が喉を締め付けた。


ほんの少しだけ、呼吸を整えたくなった。


カルミネは、ひとり、スパへ向かった。



船内スパ。

湯気と沈黙に包まれた空間で、カルミネ・ロッソは静かに目を閉じていた。

湯に沈めた両手が、微かに揺れている。


ここは彼にとって、誰にも知られたくない儀式の場だった。

血も涙も、あの男の視線も──

いったん流して、仮面を整える時間。


胸の奥、肩甲骨の下、腰のあたり。

浮かび上がる傷跡の一つひとつが、過去の戦いを語っていた。

そして、いまもなお背負っているものを。


鏡に映る顔は、いつもと変わらなかった。

ただの再確認。

この顔を保てる限り、誰もが“ロッソ”を恐れ、“ロッセリーニ”を敬う。まだ、自分は神でいられる。

あの男の前で揺らいだ自分を、もう見せるわけにはいかない。

だから今日からはまた、いつも通りの複数の仮面を纏い――

“ロッソ”であり、“ロッセリーニ”であり、

そしてまた別の誰かとして生きていく。



(……戻る)


静かに息を吐いて、カルミネは湯を出た。

髪を拭き、タオルで水を払い、仮面を被り直す。

何事もなかったかのように──

すべてを鎮めた男として。



午後。

ラウンジの奥に、レオの姿があった。

海風を背にして、グラスを片手に、静かに佇んでいた。


カルミネが近づくと、レオは振り返り──

何も言わずに、ふっと微笑んだ。


それだけだった。

言葉も、詮索もない。

けれど、その眼差しの中には、すべてが映っていた。


(……見透かされている)


そう思った瞬間、足元がわずかに揺らいだ気がした。

それでも表情ひとつ変えず、カルミネは歩を進める。


仮面は割れていない。

そう、自分に言い聞かせるように。


「午後、カジノに行くぞ」


レオはほんの一拍だけ沈黙し、グラスを傾けて返した。


「……ああ」


それだけだった。


合わせるでも、突き放すでもない。

ただ、受け入れてくれるような声だった。


──この男は、すべて知っている。

それでも、問わない。


だからこそ、手に負えない。

だからこそ──隣にいてほしいと、思ってしまう。




それから少しして。

ふたりは、船内の小さなブティックにいた。


「……まさか、捜査で乗り込んで、着替えすらないとはな」


レオが手に取った派手なオレンジ柄のシャツに、背後から低い声が落ちる。


「やめろ。それは犯罪だ」


振り向けば、白シャツの胸元を開いたカルミネが立っていた。


「俺の隣に立つなら、もう少し“見せ方”を考えろ」


「……“見せ方”?」


「お前の顔立ちは悪くない。骨格もいい。なのに、台無しにする気か?」


カルミネは、いくつかのシャツを滑らかな手つきで選び取ると、レオの前に立った。

一枚を手に取り、ゆっくりと胸元に当てる。


「肌の色と……目の色に、よく合う」


シャツの襟を軽く引いた指先が、鎖骨をなぞるように触れた。

ほんの一瞬。けれど、体温が滲むような距離だった。


「……よし。

 俺の隣でも、恥ずかしくはないな」


レオは何も言えなかった。

何かを言えば、負ける気がした。


「……行くぞ、捜査官」


カルミネが背を向ける。


レオは少し遅れて歩き出した。

その背中を追いながら、心臓の音が妙にうるさかった。




午後、船内のカジノに足を運んだふたりは、上流客が集う華やかな空間に足を踏み入れた。


金の装飾が施されたルーレットテーブル、低く流れるジャズ、

タキシードのディーラー、そしてシャンパン片手の貴婦人たち。


レオは慣れない様子で立ち尽くしていたが、カルミネは躊躇なくチップを積み上げた。


「……やるのか?」


「偶然に委ねるのは、嫌いじゃない」


そう言って、カルミネはブラックジャックの席についた。レオも隣に座る。


カルミネが配られたカードを一瞥し、ディーラーに微笑んだ。


「……ヒット」


カードが増えた。21。


「……またかよ」


「運も実力のうちだろ?」


そのやり取りに、ディーラーが微笑み、隣席の女性が感嘆の声を漏らした。


「まるで映画の主人公ね。あなたたち、絵になるわ」


そう笑った隣席の女性に、レオは思わず咳払いし、

グラスに口をつけた。


(……なんだ、それ)


目を逸らしながら、氷が当たる音だけが耳に残った。


──そのときだった。


ラウンジの空気が、わずかに緩んだ瞬間だった。


「……ああ、いたいた」


聞き覚えのある、粘ついた声。


バルベーラだった。

昨日と同じ紫のスーツ。

昨日と同じ、距離を誤った笑み。


「昨夜は、ずいぶんつれなかったじゃないか」

そう言って、意味ありげにカルミネを見る。


「せっかく、いい部屋も用意してたのに」


“まだ続いている”つもりなのだ。

拒否されたことすら、理解していない。


レオは無意識に、半歩前へ出た。



カルミネは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

そして、静かに口を開く。


カルミネは一瞬、無表情に凍りつき――

次の瞬間、すっとレオの腰に腕を回す。


「……いまはバカンス中でね。邪魔は、ご遠慮願いたい」



バルベーラは肩をすくめて笑った。


「冗談だろ?

 そいつより、楽しませてやるぜ」


——その瞬間だった。


「ナポリ港、倉庫三番。

 去年の春、積み荷が“事故”で消えた件」


カルミネの声が、淡々と落ちる。


バルベーラの表情が凍りついた。


「……なにを……」


「ロッソの名を使って動かした部下を、

 勝手に切ったな」


一拍。


「……その判断を下せるのは、

 ロッソのボスだけだ」


沈黙。


バルベーラの顔から、完全に血の気が引く。


「……ま、まさか……」


カルミネは、ようやく彼を見た。


「昨日、誰を誘っていたか——

 まだ分からないか?」


理解が追いついた瞬間、

バルベーラの膝がわずかに震えた。


「……し、失礼しました。

 俺は、本当に——」


言葉は、最後まで続かなかった。


「下がれ」

カルミネは短く言った。




バルベーラは何度も頭を下げ、

逃げるようにその場を離れていく。


昨日の余裕は、跡形もなかった。


残った静寂の中で、レオが低く言う。


「……いいのか?

 昨日も今日も、ああいう奴は——

 言いふらすぞ」


カルミネは、グラスを手に取った。


「問題ない」


カルミネは、わずかに口角を上げた。


(――どうせ、口を利けなくなる)


その言葉は、胸の内にだけ落とす。


代わりに、穏やかに言った。


「昨日の誘いも、

 今日の無礼も——

 ここで終わりだ」


そして――

彼はほんのわずかに身を寄せると、

誰にも聞こえないように、レオの耳元で囁いた。


「……本当に、お前との時間を邪魔されたくなかっただけさ」  


レオは返さなかった。


ただ、バルベーラの背を見送りながら、カルミネの手を払いもせず、沈黙を選んだ。

それが何を意味するのか──今はまだ、言葉にできなかった。



ふと、カルミネが微かに息を吐いた。

その視線が、テーブルのチップではなく、どこか遠くを見つめているようだった。


「……なあ、レオ」


唐突に名前を呼ばれ、レオはわずかに肩を揺らした。


「……何だ」


カルミネは、目を伏せたまま、静かに呟いた。


「お前は、もし全部失ったら……どうする?」


その言葉に、レオは一瞬、息を止めた。


「全部……?」


カルミネはわずかに笑みを浮かべたが、その笑みはどこか儚かった。


「……そうだ。自分が信じてきたもの、築いてきたもの、守ってきたもの。

 それらがすべて消えたら、どうする?」


レオはしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。


「それでも、守りたいものを守る」


その言葉は、カルミネの胸を鋭く打った。

だが彼は、痛みを隠すように微笑んだ。



「……さすが、正義の捜査官だな」

という言葉の裏に、何かが滲んでいた。


その言葉と同時に、カルミネがわずかに身を寄せた。

肩と肩が触れる、ほんの一瞬。


(……っ!)


レオは、反射的に息を呑んだ。

その距離の近さに、心臓が跳ねる。

だが、カルミネは気づかぬふりをするように、すぐに体を戻し、再びカードに視線を落とした。


「さて、次はどうする?」


その何気ない言葉が、レオの心をさらにざわつかせた。

さっきの“距離”が、まだ肌に残っている気がする。


(……この時間が終わらなければいい、なんて。)


そして、カルミネもまた思っていた。

──さっきの触れた感触が、どうしてこんなにも残っているのか。

その理由に、まだ名前はなかった。


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