第六章|秘密と、まどろみの夜

ラウンジからスイートルームへ戻る道すがら、

レオは自分の心臓の鼓動が耳の奥で響くのを感じていた。

カルミネの隣に立つだけで、不意に意識が揺さぶられる自分を、なぜか腹立たしく思う。


重厚な廊下の壁が、二人の足音をかき消していく。

目の前のドアをカルミネが静かに開ける。

その背中に、いつの間にか引き寄せられた自分の足を重ねるようにして、レオも部屋に足を踏み入れた。


ドアが閉まると、外の喧騒から切り離された異質な静寂が、二人を包み込む。

月明かりが重いカーテン越しに薄く差し込み、カルミネの漆黒の髪を淡く照らしていた。


「……ベッド、どうする?」


不意にカルミネが振り返り、口元に薄く笑みを浮かべる。


その言葉に、レオの鼓動が跳ねた。

だが、それを悟られまいと、無言のまま目を逸らした。


だが、カルミネはその沈黙も楽しむように、軽く肩をすくめた。


「まあ、今夜は仮面を被る必要もない。

 好きに過ごせばいいさ」


その言葉が、どこか挑発的に響いた。

レオはそれに反応せず、ただ無言でソファに腰を下ろした。



カルミネが軽くワインのボトルを揺らしながら、グラスに注ぐ音が静かな部屋に響いた。


(……何やってんだ、俺は)


この部屋にいること自体が異常だと理解していながら、なぜか立ち去る気にはなれない。

カルミネはバルコニーの扉を開け、夜風を感じるように一歩踏み出す。

その背中が、月明かりに淡く照らされていた。


「外の風にでも当たるか?」


カルミネが振り返り、グラスを掲げる。

その瞳には、どこか試すような光が宿っていた。


「……遠慮しとく」


レオは短く答え、目を逸らした。

だが、カルミネは肩をすくめ、そのままグラスを傾けた。



やがて、カルミネがバルコニーから戻り、ソファに腰を下ろした。

レオとの距離は、わずか数十センチ。

その近さが、妙に息苦しく感じられる。


「……ベッドは、あっちだぞ」


カルミネがワイングラスを置きながら、レオに視線を向けた。


「俺はここでいい」


レオが短く答えると、カルミネはわずかに眉をひそめた。


「ソファで寝るつもりか? 男ふたりでキングサイズだが、さすがに広すぎるだろ」


「……気にするな」


レオはそれ以上、目を合わせなかった。

カルミネは立ち上がり、ソファに座るレオの前に立ちはだかった。


「遠慮は要らない。ここは俺の部屋だ。

 客に床で寝ろとは言わない主義なんでな」


その言葉には、どこか冷たさと優しさが混ざっていた。

レオは一瞬、返す言葉を失い、そのままカルミネを見上げた。


「……それとも、俺と同じベッドじゃ嫌か?」


レオの胸が、一瞬強く跳ねた。


けれど黙ったままの彼に、カルミネが片眉を上げ、肩をすくめる。


「安心しろ。寝込みを襲う趣味はない」


ワイングラスを置きながら、さらに囁く。


「……今夜は、おとなしい夜だ」


口元には、冗談のような笑み。けれど、その声は妙に静かだった。


レオは眉をひそめつつも、視線を逸らし──


「……わかった。ベッドで寝る」


その瞬間、カルミネが薄く笑った。

だが、その笑みの奥には、どこか安堵のような色も滲んでいた。



レオがベッドに向かうと、カルミネも後を追うように足を踏み出した。

ふたりがベッドの端に腰を下ろしたその瞬間、

微かな緊張感が部屋に広がった。


──照明が落とされ、部屋には夜の静けさが満ちていた。

ベッドの上、わずかに空けた距離の中で、ふたりの呼吸だけがかすかに重なっている。


ふと、カルミネが天井を見たまま、ぽつりと呟いた。


「……夜は、好きじゃない」


それは、誰かに理解されようとして放たれた言葉ではなかった。

むしろ、自分の中に閉じ込めていたはずの、

もっとも静かで、もっとも誰にも知られたくなかった感情だった。


けれど──


隣にいる男が、何も言わずにただそこにいて、

仮面の奥を見抜かれた気がしたその瞬間、

ふと、こぼれてしまった。


レオはすぐには何も言わなかった。

けれどその言葉の重さを、ただの「好み」や「気分」だとは受け取らなかった。


夜に生きるこの男が、夜を嫌うと言った──

その裏に、どれほどの沈黙と孤独が潜んでいるのかを、

レオは、なぜか自然に理解していた。


だからこそ、問い返すことも、慰めることもしなかった。

ただ、そっと一言だけを落とした。


「……何か、話すか?」


カルミネが、ふっと笑った。


仮面の奥で、微かに滲んだ温度。

それは、わずかに緩んだ“構え”だった。

 

「……いいな、それ」


少しの間を置いて、低く言う。


「じゃあ、聞かせろよ」


「お前の夢とか。……“捜査官”になった理由。家族のこと」


レオは一瞬だけ視線を横にやり、短く呟いた。


「……俺か……」


自分に向けたような、戸惑いにも似た声。


それに、カルミネが少しだけ間を置き、低く問う。


「……親父は?」


短く、それだけの言葉だった。

けれど、それはたしかに“知ろうとする姿勢”だった。


 

レオは少し黙ってから、低く語り始めた。


「……親父は、刑事だった。事件で殉職。十歳のとき」

 

淡々としていた。

語ることに意味があると思っていない。

ただ、問われたから、答えただけ──そんな声だった。


「無口だったけど、背中は、覚えてる」


「正義って、言葉にしたのは聞いたことない。……でも、そういう顔してた」


「……あの背中、たぶん……理由だな。俺がここにいる」


カルミネはそれを、黙って聞いていた。

 

沈黙。


けれどその沈黙は、苦ではなかった。


しばらくして、カルミネが目を開けた。


「……じゃあ、俺たちは、対極だな」


そしてゆっくりと、語り始めた。


「俺は、物心ついた時にはもう孤児院にいた。

 名前も、年も、本当の生まれも知らなかった」


「誰かに抱きしめられた記憶はない。

 でも、誰かに触れられた記憶なら、数え切れないほどある」


「他人の欲望に応じることで、他人を支配できる。

 それを知ったのは――十歳にもならない頃だったよ」


レオは、目を閉じたまま聞いていた。


(……お前は、そうやって生きてきたのか)


それはレオにとって、遠い世界だった。

だがその距離のぶんだけ、胸が痛んだ。



「……俺には、ファミリーの血なんて流れちゃいない。ただ拾われて、“使える”から生かされてきた」


レオはしばし黙ってから、ふと横目で彼を見た。


「……お前、いくつだ」


カルミネがわずかに片眉を上げる。短い沈黙。


「二十八」


レオは思わず小さく息を吐いた。

「……若いな」


カルミネの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。

「お前に言われるとはな。三十一だろ、フィオーレ」


「……なんでも知ってるんだな。怖いよ」


カルミネが口元を緩める。

「安心しろ。まだ全部は知らない」


その言葉が、妙に胸に残った。



やがて――


「……カルミネ」


名前を呼ばれた瞬間、

カルミネは呼吸が浅くなるのを感じた。


レオ自身も、なぜ名前を呼んだのか――

思考よりも先に、感情が口を突いて出ていた。


「お前、全部計算して動いてるのか?」


思わず、カルミネの口元が緩んだ。


「大体はな。けど、たまに予想外のことがある」


「たとえば?」



レオの横顔が、薄明かりに浮かんでいた。


その目を見ながら、カルミネは静かに答えた。


「お前が、俺の手を握ったこと」


 

レオは何も言わなかった。

けれどその沈黙が、何よりも確かな“答え”だった。


そのまま、ふたりは黙って天井を見ていた。

わずかな距離と、かすかな呼吸だけが、夜の帳に残される。


やがて──


カルミネの指先が、シーツの中でわずかに触れた。

握るでも、求めるでもない。ただ――そこに置かれた。


(……仮面、外れてる)


いま触れてきたのは、マフィアでもボスでもない。

戦うべき敵でもない。

ただ――ひとりの、人間だった。


レオは一瞬迷ったが、その手を払いのけなかった。

むしろ、手のひらをそっと重ねた。


力はこもっていない。

ただ、“拒まない”という意思だけが、そこにあった。


一瞬、カルミネの指にわずかな緊張が走った。

その手に、ほんの少しだけ力がこもる。


何も言わない。

だからこそ、すべてがそこにあった。


やがてカルミネが静かに目を閉じ、

添えられた手の温度を確かめるように、ゆっくりと呼吸を整えた。


そのまま、何も言わずに眠りに落ちていく。

生まれて初めて、何も警戒せずに。


レオはわずかに視線を横にやった。


そこには、すべての仮面を外した、美しい犯罪者が静かに眠っていた。

冷たい彫刻ではなく――ただ、人間として。


……その隣で、レオは静かに目を閉じた。

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