第五章|近すぎる距離、揺れる心
スイートルームの鏡に映る自分は、見知らぬ男だった。
タキシード、磨き抜かれた靴、整えられた髪──どこからどう見ても上流社会の客だ。
(……まるで仮面だな)
胸の奥で苦く笑う。
背後から、カルミネが現れた。
シルクのように滑らかな黒いタキシードに身を包んだその姿は、まるで夜の闇をまとったかのように冷たく、美しかった。
「……似合ってるじゃないか」
カルミネが、ふと微笑む。
その視線がレオを貫くように鋭い。
「どうだ、気分は?」
レオは答えず、ただ軽く顎を引いただけだった。
だが、その瞬間、カルミネが一歩近づき、
ふと手を伸ばしてレオのネクタイを軽く整えた。
その手際の自然さが、妙に息苦しい。
「動くな」
低く囁かれ、レオは反射的に固まる。
結び目が整えられた瞬間、カルミネの視線がわずかに揺れた。
「……あまり緊張するな。
今夜は、敵だらけの舞踏会だからな」
その言葉には、どこか含みがあった。
だが、カルミネはそれ以上何も言わず、
ただ軽く口元に笑みを浮かべたまま、ドアへと向かった。
ディナールームは、まるで別世界のように煌びやかだった。
クリスタルのシャンデリアが天井から輝きを放ち、
磨き上げられた大理石の床がグラスの音を優雅に反響させている。
そこに集うのは、世界各国から集まった名士たち。
それぞれが仮面を被りながら、優雅に微笑み、言葉を交わしている。
だが、その笑顔の裏には、計算と野心が渦巻いていることを、レオは理解していた。
この場所は、ただの社交場ではない。
それは、肉食獣たちが牙を隠して微笑む、危険な舞台だった。
ディナールームに足を踏み入れた二人は、まるで異なる次元から現れたかのように、その存在感だけで周囲の空気を変えていた。
カルミネは、完璧な笑みを浮かべながら優雅に歩を進める。
その黒髪が柔らかく揺れるたびに、光が絡みつくように輝く。
レオもまた、鍛え抜かれた体にタキシードを纏い、
その鋭い眼差しが周囲を威圧する。
その姿は、まるで異なる世界から迷い込んだ二匹の獣。
その異様な美しさに一瞬、会場が静まり返り、誰もがその存在に息を呑んだ。
カルミネは、ただ立っているだけで、会場の空気を変えてしまう。
⸻
支配人がカルミネに深く頭を下げた。
「ロッセリーニ様、今夜もありがとうございます。
ご準備しておりました席へご案内を」
「こちらは、レオナルド。旅の連れだ。肩書きは要らない。
“親しい男”だよ」
支配人は戸惑いながらも微笑む。
「ロッセリーニ様のご友人であれば、我々にとっても特別なお客様です」
レオは何も言わず、ただ静かにカルミネの横に立った。
その一言が、まるで鎖のようにレオの心に絡みつく。
⸻
二人が席に着くと、シャンパンが注がれた。
そのきらめく泡が、静かにグラスの中で弾けている。
レオは、周囲の視線を感じながらも、
グラスの縁を指でなぞっていた。
他の客のざわめきが、かすかに耳に届く。
だが、このテーブルだけは、まるで別の空間のように静かだった。
目の前の男が、どれだけの仮面を持っているのか。
その本当の顔は、どこにあるのか。
そして、その瞳の奥に潜むものは何なのか。
(……見誤るな)
冷静であれ、と自らに言い聞かせながらも、
その存在に引かれるような感覚を振り払えない。
そんな思考を巡らせていると――
「……笑えるな」
ふと、カルミネが呟いた。
「何が」
「善人の顔を被るのは――
生きるための戦略だ」
「……お前の本音か?」
カルミネはグラスを回しながら、目を伏せた。
「さあな。
“どれが本当の俺か”……お前が決めろよ、フィオーレ」
その言葉は、静かにレオの胸に落ちた。
あの夜、命を救ってくれた男。
この夜、仮面を被りながら隣にいる男。
どちらも――嘘ではないように思えた。
そして、レオは気づいていた。
この男に対して、
心の奥が、何かを求めていることに。
それは、まだ名前を持たない想いだった。
だが確かに――“始まり”の気配がしていた。
ディナーの後。
船内のラウンジは静かな煙とささやきに包まれ、葉巻の煙がゆるやかに空気を揺らしていた。
政治家、実業家、そして裏社会の影が絡み合う複雑な空間。
そこに、ひときわ異彩を放つ男がいた。
カルロ・ロッセリーニ──慈善家として知られる若き投資家。
若さの中に鋭さを秘め、洗練された物腰で周囲の信頼を集めている。
「若いのに、よくご存じだ」
「最近の資産家の中でも群を抜いている」
称賛の言葉が酒席を満たすなか、
レオは静かに離れた席からその様子を見守っていた。
彼の鋭い視線は誰よりも冷たく、どこか異質な存在感を放っていた。
周囲の視線が、時折彼に向けられているの感じる。
カルミネの“連れ”として紹介されてはいたが、
レオの身のこなし、視線の鋭さ、沈黙の重みが、
この華やかな場には不釣り合いだった。
だが、レオの意識は、そのすべてをかき消すように、
ただひとり、カルミネ・ロッソに――。
美貌だけじゃない。
堂々とした物腰、的確な言葉、媚びを見せない強さ。
なのに――
その背中に、どこか“空っぽ”な冷たさを感じる。
(誰にも心を許していない。
いや――許さないようにしてるのか?)
そのすべてが、レオの胸をざわつかせた。
目を逸らそうとしても、どうしても、カルミネに視線が引き寄せられる。
──そのときだった。
「ロッセリーニ氏、あなたの財団の資金源って、実際どこから――」
一人の実業家が無神経に踏み込んだ瞬間、
カルミネの瞳が、わずかに動いた。
ほんの一瞬。
その視線は、氷のように冷たく、鋭く光った。
空気が、凍る。
だが次の瞬間には何事もなかったように、
穏やかな笑みで受け流し、別の話題へと移っていった。
その場にいた誰も気づかなかった。
──ただひとり、レオを除いては。
(……なんだ、今のは)
脊髄に冷たいものが走る。
完璧な微笑の奥に、確かに何かがいた。
(やっぱり……お前は、ただの慈善家じゃない)
ふと、カルミネがこちらを振り向いた。
その目は――一瞬で温度を変えた。
冷たさでも、優しさでもない。
ただ、レオにだけ向けられた、どこか――“素”のような視線。
誰にも見せていない顔。
それを自分だけに向けられたような錯覚。
理由のわからないざわつきが胸を刺した。
心理か、本能か、自分でも判断がつかない。
──その刹那。
(……出たな、バルベーラ)
紫のスーツ。下卑た笑み。
レオはその姿を認識した瞬間、無意識に背筋を正した。
DIA主任捜査官としての本能が、静かに警鐘を鳴らす。
(この船に乗っていたか……だが、当然か。
あんな美しい男が、あの場にいれば――バルベーラが無関心でいられるはずがない)
バルベーラの目が、獲物を舐め回すようにカルミネを見ていた。
長い黒髪、艶やかな肌、引き締まった身体。
そのすべてを、いやらしい目つきでなぞるように。
レオは無意識に、テーブルの下で拳を握った。
「――素晴らしい夜だ。
若く、美しい客人には、特別なもてなしをしないとな」
ねっとりとした声で、バルベーラはグラスを差し出した。
カルミネは、一瞬だけ笑った。
だがその笑みは――冷たかった。
瞳の奥が、鋭く光る。
バルベーラがわずかに眉をひそめ、言葉を飲み込むほどに。
「光栄です。ですが、今夜は――月を眺める約束がありまして」
すっと立ち上がるカルミネ。
その所作に、一切の無駄も情もなかった。
(……今の目……)
レオは、ぞくりとした。
あれは、命の値段を測る人間の目だった。
これまで幾多の凶悪犯と対峙してきた経験が、危険信号を鳴らしていた。
そのとき、胸の奥で――危うい何かが目を覚ました。
だが、カルミネの動きが気になる。
ただの偶然で、この場所にいるはずがない。
あの冷たい目の奥に、何が潜んでいるのか。
バルベーラは一瞬顔をしかめたが、
すぐに薄ら笑いを浮かべ、引き下がった。
“カルロ・ロッセリーニ”の仮面を、まさか本物の裏社会の猛獣だとは思っていないのだろう。
だがその背中には、醜悪な怒りが滲んでいた。
(……気づいていないな)
レオは、そのやり取りを見届けて、静かに息を吐いた。
バルベーラは、カルミネの“裏の顔”を知らない。
それが、逆に不気味だった。
カルミネは完璧に仮面を被っている。
油断させるために、自ら“無害”を演じている。
(……狡猾なやつだ)
そして――
レオだけが、その仮面の“奥”を見た。
ラウンジを出た後。
レオとカルミネは、並んで廊下を歩いていた。
誰もいない静かな空間。
絨毯が足音を吸い込み、重厚な壁が二人の影を静かに飲み込んでいる。
カルミネは、ふと歩みを緩めた。
わずかに足を止め、レオの方を振り返ることなく、低く言った。
「……ああいう男が増えれば、ナポリは終わる」
声に怒りはなく、ただ乾いた事実を告げるような響きだった。
レオは、その一言に、心のどこか深い場所を突かれたような気がした。
(……今のは、ただの感想じゃない)
(遅かれ早かれ──始末をつけるつもりだな)
だがカルミネは、それ以上何も言わなかった。
まるで何事もなかったかのように、また歩き出す。
レオは、数歩遅れてついていった。
ふと、カルミネが振り返った。
その瞳には、薄く笑みが浮かんでいる。
「……焼いてただろ?」
不意を突かれたレオは、顔をしかめた。
「…してねぇよ」
カルミネは、その反応が面白いというように、さらに笑みを深めた。
「嘘だ。顔に書いてあった」
その言葉が、レオの胸に小さな火を灯す。
「……お前みたいなやつ、
誰だって目をつける。……それだけだ」
「ふうん?」
カルミネは、いたずらっぽくレオを見た。
その視線は、まるでレオの内心を探るように、鋭くもあり、どこか楽しげでもあった。
「俺のどこがそんなに“引っかかる”?」
レオは、言葉に詰まった。
――全部だ。
だが“憎い”のか“警戒なのか”、判別がつかない。
だが、その感情を言葉にするわけにはいかなかった。
レオはただ、視線を逸らし、再び歩き出した。
「……ベッド、どうする?」
唐突に話題が変わる。
「男ふたりで、キングサイズだぜ?」
鼓動が跳ねる。
(……こっちが意識してるの、わかってて言ってるだろ)
悟られまいと、口を閉ざしたまま。
無言でスイートへ戻る。
──鼓動が止まらないままに。
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