第三章|仮面の微笑、揺れる視線

ミラノ、フォーシーズンズホテル ミラノ。

15世紀の修道院を改装したこのホテルは、歴史的な佇まいと現代的な洗練が交差する特別な空間だ。イタリア政財界の名士が集う今夜のガラは、その格式にふさわしい。


天井のシャンデリアが磨かれた大理石に光を落とし、ホール全体が淡い金色に染まる。

シャンパンの泡が静かに立ち、クリスタルが触れ合う音が音楽と混じって空気を揺らしていた。


DIA(イタリア国家反マフィア捜査局)は「治安連携」の名目で数名を派遣しており、その中に主任捜査官レオナルド・フィオーレもいた。


名目は来賓。だが任務は別だ。

レオはシルバーのトレイを抱えた給仕の間を抜け、壁際から会場全体を見渡す。華やかさの奥には、薄い緊張が確かに漂っている。


(……馴染まねぇな、こういう場は)


クリスタルの触れ合う音、上品な笑い、強めの香水。どれも落ち着かない。

それでもここに立つ理由がある――見逃せない“標的”がいる。


ホールの一角。警護の合間にコーヒーへ手を伸ばしたレオの前に、一人の女性が来た。

DIAの分析官。髪をアップにまとめ、華やかなドレス。わずかに強い香りがふわりと漂う。


「主任って、ほんと甘党ですよね……そういうとこ、ちょっと可愛いです」


レオは返さず、タルトにフォークを入れた。視線は終始ホールの奥、動線に向いている。


「……朝も食った。ここは焼き加減がいい」


事実だけを置く。

女性は一瞬固まり、笑みを作って小さく会釈し、その場を離れた。



(……何か変なことを言ったか?俺は)



その様子を遠くから観察する男がいる。表情は崩さず、グラスを傾ける仕草も完璧なまま。

ただ、その目だけが静かに、鋭く一点を捉えていた。


(……真面目なやつだな)


それだけ。揺れず、淡々と事実として受け入れる。


カルミネ・ロッソの瞳は、何も映していない“ふり”を続けながらも、その姿を確かに焼きつけていた。





小さなざわめきが起き、空気が変わる。

ただの来賓ではない。誰もが無意識に息を呑み、視線が収束するほどの存在感。


「本日ご紹介するのは、ロッソ財団理事長、カルロ・ロッセリーニ氏です」


司会の声が響く。

会場が一瞬だけ凍り、ざわめきはひそやかな緊張へと変わった。彼が“現れた”だけで、空間の重力が変わる。


その名を耳にした瞬間、レオの指がわずかに止まった。

ロッソ――忘れるはずがない。


ゆっくりと歩み入る男。

漆黒のスーツに細いネクタイ、艶を抑えた黒髪を後ろで束ねている。場の誰よりも洗練され、誰よりも異質だ。

時間が彼の周囲だけ止まったかのように自然で、圧倒的。

この格式さえ、その存在でいっそう際立つ。


名乗った名は「カルロ・ロッセリーニ」。


(……カルミネ・ロッソ)


記憶に刻まれた“裏の顔”。見間違えるはずがない。

鋭く彫られた顔。冷たい静けさを湛えた瞳。



カルミネは誰より丁寧に振る舞いながら、誰より冷ややかな支配の空気を纏っていた。

所作は完璧な仮面。だが瞳の奥には、深い静寂と底知れない孤独が潜む。


「やあ、ロッセリーニさん。今日はまた、お盛況のようで」

財界人のひとりが皮肉に笑う。

「へぇ、福祉なんて。ずいぶんイメージ戦略に熱心なんですね」


カルロ・ロッセリーニは微笑のまま応じた。


「ええ。表向きだけでも善人を演じていれば、いつか“本物”に見えることもあるでしょう?」


場が一瞬で凍る。

だが彼の顔には微笑が張りついたままだ。


(……くだらない。誰もが仮面を被り、真意を隠して笑う)

(だが、俺も同じだ。いや、それ以上かもしれない)


ふと、視線を感じる。

振り返った先――レオナルド・フィオーレ。

その鋭い眼差しが、彼を捉えて離さない。



レオも視線を逸らさなかった。胸の奥で何かが軋む。

単に“敵を見つけた”感覚ではない。むしろ、ただの犯罪者ではないと直感してしまう、理解しがたい揺らぎ。


(……まさか)

(……この距離で、また会うとは)


視線の奥に別の何かが潜む。見えない深淵を覗き込むような感覚。

理性は拒むのに、引き寄せられる。


(……何なんだ、この感覚は)


獲物を狙う目ではない。だが、見逃すこともできない。

その間にある、“名前のない何か”。


確信と疑念が静かに、確実に広がっていく。



その視線に、カルミネはわずかに眉を動かした。

(……捜査官の目だ。だが、あの目は俺をただの犯罪者として見ていない)


一瞬、視線が交差する。レオの目が彼の瞳を貫いた。

(……何を見ている?)


仮面に、細いひびが入る。

(……危険だ)


彼はすぐに視線を外し、財界人たちへ戻す。動作は自然で、冷静だ。


「……ですが、私は“善人だと信じてもらえるほど”器用ではないので」



さらに空気が冷える。

誰かが息を呑む音。カルミネは意に介さず、グラスを持ち上げる。

その仕草は、自らを「支配者」として宣言するかのようだった。



レオはグラスを置き、ひとつ息を吐いた。

会場の空気が再び動く。音楽と談笑が戻り、誰もが“普通”を装い直す。


(──あいつが、ここにいる)


カルロ・ロッセリーニ。表向きは慈善家で、財団の理事長。

だがその仮面の奥に隠された男の正体を、知っているのは自分だけだ。


(……報告は、していない)


本来なら上層部に知らせるべきだった。

だが、あの霧の夜に“真実”へ触れた瞬間から、何かが変わった。


 ──報告はしていない。罪悪感より強いのは、この男を見届けたいという衝動だった。


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