第二章|運命に触れる

イタリア南部――霧が港湾地区を飲み込み、夜は潮の匂いを含んでいた。

冷たく湿った空気が街を覆い、どこかで波が倉庫の壁へ砕ける音がする。


カルミネ・ロッソは薄い霧の中に立っていた。

足元の石畳は湿り、鈍く光る。崩れかけたレンガ造りの倉庫が背後にそびえ、その影が彼の輪郭を鋭く浮かび上がらせる。



(……あの目)


クラブの夜に交錯した視線が脳裏をよぎる。

混乱の中で唯一濁らなかった眼差し。正義でも怒りでもない。

研ぎ澄まされた“意思”だけが、そこにあった。


──理屈じゃなかった。


合理を旨とし、感情を切り捨てて生きる。

それがロッソのやり方であり、生き延びる術だった。

だが、あの夜以来、その信条が微かに揺らいでいることを、彼は気づきたくなかった。



不意に、脳裏で声が蘇る。

霧のざわめきに混じって、誰かの声が呼んだ。


『……ボス、行くのか?』


参謀のエリオ・モレッティ――。

「ボス」と呼びながら、遠慮のない口調で言えるのはこの男だけだ。


『なんでお前が動くんだよ。部下に任せりゃ済む話だろ』


カルミネは答えず、煙草を手に取った。

だが、火をつけることなく指先で転がすだけ。

あのときも、今と同じだった。


『お前らしくねぇな……理屈に合わねぇだろ』


的確で遠慮のない忠告。


「……罠に気づかねえだろ、あれじゃ」


低くこぼれた声は、誰に向けたものでもなかった。

ただ、霧に溶けていくような独白だった。


だが、一番驚いていたのはエリオではなくカルミネ自身だった。

答えを探すより早く、もう立ち上がっていた。


(……俺自身、一番驚いている)



(……厄介な男だ)


冷たく鋭い目に、生々しい熱を感じる。拒んでいた“生”そのものがそこにあった。

忌むべき衝動。だが確かに――目を逸らせなかった。


(……愚かだな)


それでも彼はここにいる。

レオナルド・フィオーレが現れるかもしれないと知りながら。

待っていたつもりはない。だが、足が動かなかった。


遠くから足音が近づく。重く確かな歩調。

迷いのない足取りが、霧の中からこちらへ向かってくる。


カルミネは煙草に火を点けることもなく、息を潜めた。

自分の鼓動だけが耳にまとわりつく。喉の奥で、笑いがこぼれそうになる。


(……やめておけよ、ロッソ)



その頃、レオナルド・フィオーレは港湾の倉庫街を迷いなく進んでいた。

手には拳銃。冷たい金属の感触が、彼の決意を際立たせる。


(……バルベーラがここで動くなら、今しかない)


半ば業務の延長で繋がっている協力者からの曖昧な密告。

信じるべきかどうか判断に迷う程度の情報だった。

だからこそ──まず自分の目で確かめるしかなかった。


罠か真実かは関係ない。確かめることが任務だ。

証拠も、令状もない。だが現場を押さえるまでは引かない。


冷静さと規律が、彼を突き動かしていた。


倉庫のシャッターは半開き。中は静まり返り、空気が重い。レオがゆっくりと踏み込んだそのとき――


「……ずいぶん足音が荒いな」


低く、静かな声。ひと度だけ聞いた声が、記憶を鮮やかに揺さぶる。


振り返ると、男が立っていた。

漆黒のコートを纏い、霧の向こうで輪郭だけが月明かりに浮かぶ。


レオは反射的に銃に手をかける。だが男は両手をゆるやかに上げてみせた。


「撃つな。俺はバルベーラの味方じゃない」


レオは、わずかに息を詰めた。


「今夜の情報──掴まされたな。DIAの動き、読まれてる」

「……なぜ、それを知ってる」

「さあな。敵の敵は味方ってやつかもな」


カルミネは一歩、歩み寄る。

「レオナルド・フィオーレ。あの夜の“借り”、返しに来ただけさ」

「借り、だと?」

「そうでも言わなきゃ、お前、ここで俺を撃つつもりだろ」


「……お前は」


男は、口元だけで笑った。


「まだ、わからないか?」


レオは、男の左手に視線を落とした。


袖口からわずかに覗く、控えめすぎる指輪。

装飾のない、上質なもの。


――表に立つ人間の手だ。


「……名前を二つ使い分けるのは、大変そうだな」


男は、一瞬だけ視線を落とした。


「観察眼がいい」


「カルロ・ロッセリーニ」


「その名で呼ばれることもある」


一拍。


カルミネは、気づけばすぐ目の前にいた。

視線を逸らす間もなく、囁く。


「カルミネ・ロッソだ」


胸の奥で、何かが音もなく、しかし決定的に落ちた。

――やはり、カルロ・ロッセリーニとカルミネ・ロッソは、同一人物だった。


だが、理解より先に、疑問が突き上がる。


なぜ、この俺に名を明かした?


彼がさらに詰め寄る。香水ではない、彼の纏う空気が、レオの感覚を狂わせる。


「……このままじゃ、死ぬぞ。‘正義’だけで動くには、この街は毒が強い」

「余計なお世話だ」

「でも、お前はそれでも来るだろうな」


その言葉が妙に胸に刺さる。


「なぜ――」


言いかけた瞬間、外から微かな物音。カルミネは咄嗟に腕を掴み、脇の扉を押し開ける。暗い非常通路へとレオを引き込んだ。


風が抜ける細い通路。二人の距離は限りなく近い。吐息が触れるほどの間合いだ。


レオは視線を逸らすが、カルミネはそれを逃さない。


「……その反応、面白いな」


レオは呼吸を整え、問いを投げる。


「なぜここに?」

「――気になる相手に、もう一度会いに来ただけさ」


答えた直後、カルミネは霧の中へと消えていった。



アパートに戻ったレオはソファに沈み、スーツも脱がずに天井を見上げていた。シャワーも浴びていない。


(……また、あの距離だった)


逃げられなかった。動けなかった。拳がわずかに震えている。


彼は、規律から外れることを良しとしない人間だった。

カラビニエリの特殊部隊にいた頃から、

判断を感情に委ねたことは一度もない。


任務は任務。

個人は切り捨てる。

それが、生き延びるためのやり方だった。


(なぜ、俺は……報告していない?)


あの夜のことも、今夜のことも。カルロ=カルミネであるという決定的な情報を。普通なら上司へ即報告すべき事柄を、なぜ口にできないのか。整理がつかない。口にすれば終わってしまう気がした。あの距離、あの目が“現実”になるのが怖かった。


――まったく、何をやってるんだ、俺は。


深く息を吐く。胸にはまだ熱が残っている。


(なぜ、俺は──撃たなかった?)

(なぜ、あいつは──正体を明かした?)


答えは出ない。ただ一つ確かなことがある。


──もう一度、会ってしまった。


次に会うとき、

自分がどんな顔をしているのか、

レオには想像がつかなかった。

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