第一章|見つけたら、どうするつもりだった?
クラブのフロアは、重低音に震えていた。
煙、香水、アルコールが入り混じる濃密な空気。
男たちの笑い声、女たちの鋭い視線。
退廃と刺激が交錯する夜の底。
その空気は、いつ暴力に転じてもおかしくない緊張を孕んでいた。
レオナルド・フィオーレは、その熱に包まれながらも冷静に視線を泳がせていた。
――DIA(イタリア国家反マフィア捜査局)主任捜査官。
規則に厳しいことで知られる男が、
今夜はその規則を踏み越えて、ひとりでここにいた。
ターゲットは、若きマフィアのボス、カルミネ・ロッソ。
独立系として活動するロッソファミリーは、他の大組織に属さず、
近年、密かに勢力を伸ばしつつある。
その名はナポリからシチリアにかけて恐れられ、闇社会に君臨する存在だ。
いくつもの抗争と裏取引に名前が浮かんでは消えたが、公にはほとんど証拠が残されていない。
写真も、映像も、証言も曖昧なまま。実在すら疑われる中で、ただその名だけが、影のように残されていた。
その男が、今夜ここに現れるという密告があった。
上司には報告していない。証拠も、令状もない。
これは“捜査官としての勘”だけを頼りに踏み込んだ、ギリギリの潜入だった。
──規則に厳しい自分が、なぜこうしているのか。理由は、まだ言葉にならなかった。
怪物と呼ぶには証拠が薄すぎる。それが妙に気になった。
ただ、それだけのはずだった。
⸻
顔を伏せ、帽子を深く被る。
だが、その目は常に冷静で、獲物を見極める捕食者のように周囲を捉えていた。
殺気、動揺、わずかな息遣い――
すべてが彼の網にかかる。
この場所にいる全員の息の音が、彼には聞こえているようだった。
だが。
「……おい、あの男――」
「さっきから動きが変だ。警察じゃねぇか?」
耳に入ったその瞬間、空気が変わった。
視線が集まり、会話が止まり、――殺気が走った。
レオの心拍が跳ね上がる。
(まずい。完全にバレた)
背後から動く気配。
小さくポケットに手を差し入れる者。
ナイフか、銃か――
このままでは、“消される”。
フロアの出口を確認する間もなく、複数の男が近づいてくる気配に、レオは身を翻した。
非常口、階段、バックヤード、あらゆる出口を瞬時に計算しながら視線を泳がせる。
(……どう動く。どのルートが生き残れる)
ほんの一瞬、判断が遅れた。
それが、今まで一度もなかった感覚だった。
混雑するフロアの配置と敵の数が、彼の選択肢を次々と潰していく。
どの出口も距離がありすぎる。銃を使えば騒ぎになり、包囲はさらに厳しくなる。
(……まずいな)
心臓は冷静に鼓動を刻んでいた。
レオは一息吐き、視線をさらに鋭くさせる。
わずかな隙間、壁の加減、誰も気づかない死角を探し続ける。
⸻
フロアを見下ろす半個室の特等席で、カルミネ・ロッソは静かにグラスを傾けていた。
薄暗がりに身を沈めながらも、その視線は確かに、ひとりの男を追っていた。
(……あの目は、警察のものじゃない)
無駄に威圧しない。なのに、誰よりも周囲を見ている。
混乱に乗じて周囲を巻き込むこともせず、冷静に逃げ道を計算している。
それが表情にも、視線にも、はっきりと滲んでいた。
カルミネは、ほんの一瞬、口元にかすかな笑みを浮かべた。
わざわざ、死ぬかもしれぬ場所まで足を運ぶとは。
……俺に会うためにか。
ならば――
(……出てやるか。ここで)
「…おい、カルミネ。
出たら全部水の泡だって言ってんだよ」
ロッソファミリーの腹心の参謀、エリオ・モレッティが、警戒を隠さず声を発した。
「……」
カルミネはグラスの縁をなぞり、再びフロアへと視線を落とした。
逃げ場を探しながらも冷静さを失わぬ若い捜査官の姿が、そこにあった。
「ここで動いたら──仮面が剥がれるぞ」
「構わない」
エリオの眉が動いた。
「……ボスらしくない」
カルミネは一拍、息を止めてから低く答えた。
「仮面を被るのは、いつでも俺の意思だ。
……脱ぐと決めるのも、俺だ」
虚ろな笑みが口元に浮かぶ。
「それに──忘れていたな、ああいう目を。
俺をただの悪党と切り捨てない、その目を」
グラスを置き、わずかに身を乗り出す。
「誰が“俺”なのかを見抜けるか……試してやるのも、面白い」
⸻
その瞬間、レオの背後から誰かの手が伸びた。
冷たく、しかし確かな力で腕を掴まれる。
振り返る間もなく、低い声が耳元に落ちた。
「……バカか、お前は。ここがどこだかわかってんのか?」
全身に緊張が走る。咄嗟に身をひねって、その顔を見た。
一瞬で、記憶がざわついた。
ニュース。雑誌。表彰式。
子どもたちと笑い合っていた顔。
──カルロ・ロッセリーニ。
名の知れた慈善家。上層市民の間では、知らぬ者はいない。
(……なぜ、こんな場所に……?)
(……カルロ・ロッセリーニ?)
ありえない、と思った。
この男は、慈善事業で名を知られ、
表彰式では子どもたちに囲まれて笑っていたはずだ。
だが――
その瞳だけが、違った。
氷の底に沈んだ光。
人を値踏みするような冷たさ。
(……同じ人間、なわけがない)
それでも、どこかで。
“名前のない何か”が、胸の奥でざわついた。
⸻
男はレオをフロアの死角に押し込んだ。
数十センチの隙間。互いの吐息が絡むほどの距離。
「ここは監視カメラの死角だ。
俺が、こんな“一般フロア”にいると思うか?」
「……だったら、なんで――」
「ここから東の裏口へ行け。誰にも見られず出られるのは、そこだけだ」
「……なぜ、俺を助ける?」
カルミネは小さく笑った。
冷たく、どこか試すような笑み。
「助けるんじゃない。
“俺”を見つけられるか、試しているだけさ」
低い声に、レオの心臓が一瞬強く脈打った。
その言葉は、挑発であり、同時に問いでもあった。
──見つけたら、どうするつもりだった?
⸻
レオは、その夜、クラブを出た。
命を救われた捜査官として。
そして、言葉にならぬ“何か”を抱えたままの人間として。
何も得られなかったわけではない。
いや、むしろ――すべてを見てしまった。
その夜の出来事は、
まだ名前を持たないまま、胸の奥に沈んでいった。
⸻
一方、カルミネは思っていた。
(……仮面を脱ぐ日が来ることは、いずれわかっていた)
出るべきではなかった。
それは当然の判断。
だが――
(あの男が、あの目でこちらを見た瞬間。
……選択肢は消えた)
愚かだと知りながら、それでも選んでしまった。
理由は、まだ言葉にならない。
ただ、あの夜の残像だけが、心に残っていた。
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