第08話「突然の来訪者と、アキラの覚悟」

 その日、アキラの屋敷は珍しく穏やかな午後の時間を迎えていた。

 執務を早めに切り上げたアキラと、書庫の整理を終えたカイは、日当たりの良いテラスで二人きりのお茶を楽しんでいた。


「このハーブティー、いい香りだな。君が庭で育ててくれたやつだろう?」

「……うん。カモミール。眠くなる」

「はは、確かにな。じゃあ、今夜はよく眠れそうだ」


 アキラがそう言って笑うと、カイもつられて、ふっと口元を緩めた。

 こんな何気ない会話、穏やかな時間。それが、アキラにとっては宝物のように感じられた。

 この想いを、いつ伝えようか。

 アキラがそんなことを考えていた、その時だった。

 屋敷の門の方が、にわかに騒がしくなった。怒号と、金属がぶつかり合うような音。穏やかな午後の空気を引き裂く、不穏な響きだった。


「何事だ!?」


 アキラが立ち上がると、血相を変えた使用人がテラスに駆け込んできた。


「だ、旦那様! 大変です! 武装した一団が、門を破って……!」


 その言葉が終わらないうちに、テラスに通じる扉が乱暴に蹴破られた。

 ずかずかと入ってきたのは、派手な装飾の甲冑を身につけた、尊大な顔つきの男だった。その背後には、物々しい武装をした兵士たちがずらりと控えている。


「突然の無礼、お許しかな、ヴァイス領主殿。俺は隣国のバルドル子爵と申す者だ」


 男――バルドルは、値踏みするような視線でアキラを一瞥すると、すぐにその隣に立つカイに目を留めた。

 その瞬間、彼の目に、ねっとりとした執着の色が浮かぶ。


「おお……おお! やはりお前だったか、カイ! ずいぶんと探したぞ、俺の可愛い小鳥ちゃん」


 バルドルの声を聞いた瞬間、カイの体が石のように硬直した。

 顔からは血の気が引き、その空色の瞳が、かつてないほどの恐怖に見開かれる。カタカタと、全身が小刻みに震えだした。

 アキラは、カイの異常な様子と、男の言葉で、全てを瞬時に理解した。

 こいつが、カイのかつての主人。カイの心を深く傷つけた、元凶。


「カイ……!」


 アキラは咄嗟に、震えるカイの肩を抱き寄せ、自分の背後へと隠した。カイは、怯えた子供のように、アキラの服を強く握りしめる。

 アキラは、カイを背後で守りながら、毅然とした態度でバルドルの前に立ちはだかった。領主としての威厳を、その全身にまとわせて。


「バルドル子爵。貴殿の突然の来訪、そしてこの狼藉、一体どういうつもりだ。ここは我がヴァイス領。他国の貴族が、許可なく軍を率いて踏み込んで良い場所ではないと、ご存じないのか」


 アキラの冷静で、しかし芯の通った声に、バルドルは鼻で笑った。


「無論、分かっているさ。だが、俺にはそうせざるを得ない、正当な理由がある。なに、難しい話ではない。我が『財産』を返してもらいに来ただけのことだ」


 バルドルはそう言って、顎でアキラの背後をしゃくった。その視線は、カイに粘りつくように注がれている。


「そいつは、俺の奴隷だ。正式な契約書もある。さあ、俺の大切な財産を、とっととこちらへ引き渡してもらおうか」


 その傲慢な物言いに、アキラの腹の底で、静かな怒りの炎が燃え上がった。

 財産だと? カイのことを、ただの物のように。

 アキラは、背後で震えるカイの肩を、安心させるようにそっと撫でた。そして、バルドルに向き直る。

 その瞳には、先ほどまでの穏やかさは消え、氷のような冷たい光が宿っていた。


「断る」


 アキラの、短く、しかしきっぱりとした拒絶の言葉に、バルドルは眉をひそめた。


「……ほう? 今、何と言った?」

「何度でも言ってやる。断ると言ったんだ」


 アキラの声が、静まり返ったテラスに響き渡る。


「カイは財産などではない。彼は、自由な意思を持つ一人の人間だ。そして……」


 アキラは、背後のカイの手を強く握った。その温もりを確かめるように。


「私の、かけがえのない大切な家族だ。お前のような男には、絶対に渡さない!」


 その言葉は、アキラの魂からの叫びだった。

 それは、領主として民を守るという決意。そして、愛する人を何があっても守り抜くという、一人の男としての覚悟の表明だった。

 カイが、背後で息をのむのが分かった。「大切な家族」。その言葉が、恐怖に凍りついていたカイの心に、温かい光を灯す。

 バルドルは、アキラのあまりにも堂々とした態度に、一瞬たじろいだが、すぐに顔を怒りで歪ませた。


「……面白い。一介の若造領主が、この俺に逆らうか。良いだろう、ならば力ずくで返してもらうまでだ! やれ、者ども! あの獣人を捕らえろ! 抵抗する者は斬り捨てて構わん!」


 バルドルの号令一下、兵士たちが一斉に剣を抜き、アキラとカイに襲いかかった。

 だが、アキラは冷静だった。


「――そうはさせない」


 アキラは左手を地面につけると、体内の魔力を一気に解放した。


「【大地の障壁(ウォール・オブ・アース)】!」


 轟音と共に、テラスの床が盛り上がり、アキラとカイの前に巨大な土の壁が出現した。兵士たちの剣は、硬い壁に阻まれ、カン、と甲高い音を立てて弾かれる。

 アキラはカイの手を引いて、屋敷の奥へと走り出した。


「カイ、こっちだ!」


 戦うしかない。

 カイを守るため、この領地を守るため、そして、二人の穏やかな日常を取り戻すために。

 アキラは、もう迷わなかった。領主として、そしてカイを愛する一人の男として、彼は戦うことを決意したのだ。

 背後で、バルドルの怒号が響き渡る。


「壁なぞ、すぐに壊してしまえ! 絶対に逃がすな!」


 戦いの火蓋は、切って落とされた。

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